「足利事件」菅家さんの冤罪に関して、法の原則「疑わしきは罰せず」をどうお考えですか?
足利事件』で逮捕され、17年ぶりで釈放されたた菅家さん。
「当日の警察、検察は絶対に許せない、間違ったでは済まないんです。私の人生を返してください!」と、言っていました。
やってもいない殺人なのに、強引な取調べで自白をせざるを得なかった菅家さんの人生を奪われた悲しみ、追い込んだ奴らに対する憎しみはいかばかりでしょう。
彼を自白に追い込んだのは警察の杜撰な捜査や強引な取調べだけではないと思います。当時のマスコミは「コイツが犯人」と決めて報道したテレビや新聞も大きな責任があると思います。さらに、マスコミの「正義」に操られた私たち国民も反省しなければなりません。
菅家さんの「冤罪」について思いますのは「疑わしきは被告人の利益に」、「100人の犯罪者を逃しても、1人の冤罪者を出してはならない」という刑事裁判の大原則を再確認することかと思います。
また、菅家さんの無念を少しでも晴らすには、今後こういう「冤罪」は二度と起こしてはならないということだと思います。
そこで皆様にお聞きしたいのですが「京都教育大学の事件」です。
もし「冤罪」だったら?この学生6名には、菅家さんに与えたと同類の、人生に決定的なダメージを与えてしまうことになるでしょう。
(私は少々行き過ぎた騒ぎだとは思いますが、決してこんなに騒がれる重大犯罪ではないと思います)
マスコミも、この趣味人倶楽部でも「犯人と決めつけている方が大半です。「足利事件」がマスコミで騒がれている今、皆様は「疑わしきは罰せず」についてどのように思われるでしょうか。
(以下、参考です)
http://smcb.jp/ques/12376
この中には、彼ら6名を「極悪犯人ということを事実」として受け止められています。
たとえば、
「こんな大学に誰がした!!」、「大学の対応は、どんな言い訳をしたところで犯人隠避です。」、犯行に加わった加害者の一人の学生が犯行を認めていると報道されています。」、「この国の将来を託す人材がこのような教育機関で育てられているか?将来教育者を目指す者がこんな有り様では、あきれ果てるばかりです」、「将来の教師(聖職)を目指す者たちが起こした最も唾棄すべき事件」、「国立の教育大という「ブランド」の学生がおこした事件であり、「自分たちは少々のことなら許される」という慢心があったのではないでしょうか?また、周りの大人もそういう風に育てたのでは?」
ペンネーム:質問者 (匿名希望)さん
菅家さんの名誉を少しでも回復し、失われた歳月を少しでも埋め合わせ、17年間抱いてきた自分を犯人と決め付けた人間たちに対する怒りを、少しでも静めるためにも、具体的に原因追求と責任をとらせなくてはなりません!
>基本的に”やり得”の世の中ですから、先ずやらせないようにしないと・・・。
ほんとに「やり得」の世の中です。
これをさせないためにどうするか?考えてみました。
マスコミで「事件報道のデータベース」つくりをし、インターネットで当時の報道を検索できるようにすることで、「やり得」を未然に防ぐことができるかと思います。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
「マスコミで「事件報道のデータベース」つくりをし、インターネットで当時の報道を検索できるようにすることで、「やり得」を未然に防ぐことができるかと思います」との提案はとてもいい案だと思います!
機密文書の歴史的公開がされても、なかなか責任はとりませんからね。
しかし、この間の情報公開の歴史的な流れは、菅谷事件の解決への大きな力になっているはずです。
情報の公開は必然的に事態の客観的な評価と責任の所在を要求する性質をもっていますから。
歴史的に過去の言動を検証し、歴史的責任を明確にし、責任をとらせる、ケースによっては名誉を回復する等の明確な方式・ルールを確立させる必要があります!
環境問題も然りですが、国際的にも国内的にも「やり得」に歴史的決着をつける世紀にはいっているのではとも思ったり・・・。