育児ノイローゼに陥っているのに、【子どもを欲しい】とせがまれました
私と妻が出会ったのは1990年、結婚は1991年です。
私は再婚・妻は初婚。
私には先妻のもとに1人の娘がいます。
先妻・娘・私の3人で暮らしていた時、私は軽度の育児ノイローゼでした。
育児をほとんど手伝いませんでしたが、たまに先妻が1人で出かけて、私と娘とで過ごしたことがあります。
ミルクを飲ませたり子守唄を歌ったりして普通に過ごせるうちは良いのです。
1度、娘のおむつ交換をしている最中に、娘の太ももを平手打ちしたことがありました。
娘が泣き止まないと、私は豹変しました。
タオルを鞭のように娘に振り下ろすのです。
【きゃあ! きゃあ! きゃあ!】
と叫びながらタオルを鞭のように娘に振り下ろすのです。
叫ぶのは娘では有りません、私です。
その後、私の父と母と妹が、私の家庭に難題を持込み、それが原因で私は1988年に離婚しました。
1991年に再婚。
またもや、私の父と母と妹が、私の家庭に難題を持込み、そのショックと反動なのか妻は【子どもを欲しい】と言いました。
その妻の願望自体がごく普通の願望であることは理解しています。
私は子どもを欲しくありませんでしたしセックスが目的でもありませんでした。
しかし、妻の要求に応じた結果、1993年に長男が生まれました。
先妻・娘・私の3人で暮らしていた時期、近所に義父・義母が住んでいたので、私が育児を手伝う場面は少なかったです。
しかし、再婚の生活は東京、私の両親は埼玉、妻の両親は新潟。
私にも育児分担が求められました。
毎日の授乳・おむつ交換・入浴・保育園の送迎。
妻との分担比率は50%ではなかったですが、かなりの負担でした。
先妻との間に生まれた娘に対する酷い虐待。
長い間そのことを忘れておりましたが、長男に対する虐待が始まったときに全てを思い出しました。
私は、自分が病気なんだと悟りました。
長男が4歳の時に、妻が【もう1人子どもを欲しい】と言い出しましたが、既に私は自分の育児ノイローゼを自覚しておりましたから、妻の要求には徹底反対しました。
セックスは当然拒否です。
妻は大声で【チクショー!】と叫びお皿をテーブルに叩きつけて、叩き割りました。
それで私は恐ろしくなり、少しずつ諦めと降参の考えに傾き、妻とのセックスに応じました。
そして妻は妊娠、育児ノイローゼが怖かった私は保健センターで育児ノイローゼの相談をしました。
そして1998年に次男が生まれ、私は次男に対しても毎日の授乳・おむつ交換・入浴・保育園の送迎をしました。
1999年。
私・妻・長男・次男の4人で自由が丘に買い物に行きました。
今にして思えば、その当時既に私の体は病魔に冒され始めていたのです。
自由が丘の街を歩くのがつらくて、妻が買ったものを持たされて歩き回るのもつらいのです。
早く帰りたいと妻に言いましたが、【もう少し見てまわりたい、買いたい】と言って私を苦痛から解放してくれません。
帰宅して、夫婦喧嘩が始まりました。
妻は大声で何かを言い捨てると、寝室に逃げこんで鍵をかけてしまいました。
怒り心頭の私は、寝室のドアを蹴破るかと思うほどに叩きました。
驚いた妻が鍵を開けると、私は寝室に入り妻をベッドに押し倒しました。
四つん這いになった妻。
私は、その妻の腰の辺りを思いっきり殴りました。
【痛い!! うぅぅぅ・・・・・うわぁ〜ん】
妻は叫んで、暫く苦悶の声をもらしたのち、なき始めました。
そして、私はベッドの上に座った妻の膝を何度も殴りました。
妻の膝は、見る見るうちに赤黒く変色していきました。
それでも私は殴り続けました。
100回くらい殴ったと思います。
それから1年間は大きな事件はありませんでした。
しかし、久しぶりに夫婦喧嘩が始まると、私は豹変しました。
妻や子どもたちに暴力を振るってはいけないと思い、近くにあったカラーボックスをなぎ倒しました。
立て続けに、木製の椅子をテーブルに叩きつけて叩き割り、テーブルを倒し、要するに家の中を破壊しまくりました。
妻は子どもたちを連れて出て行き、その夜は近所の友人宅に泊まったそうで、翌日は帰ってきました。
その後、私はどんどん体調が悪くなり、ある病気が判明しました。
今は車椅子の生活、手も不自由で、言葉も言語障害。
妻や子どもたちを怒鳴る元気も殴る元気も家具を破壊する元気も能力もありません。
育児ノイローゼの私に拷問のように【もう1人子どもを欲しい】と言った妻を今だに許せません。
妻が【もう1人子どもを欲しい】と私を追い込み、結果的に私はDVしました。
理由がどうあれ、私は犯罪者なのです。
お読みくださりありがとうございました。