「史跡」の日記一覧

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☆徳川幕府が設置した重要な物流の拠点【大阪船奉行所跡地】

此花区西九条を流れる「六軒家川」に架かる「朝日橋」の袂にこのような施設があったなんて相当な歴史通でないと知らないだろうね 偶然真横を通過したからこそ見つけてしまったよ 町歩きの記録が一ヶ所増えたと私はにんまり! 六軒家川ってマイナーな河川名だけどけっこう太い流れなんだね

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☆正真正銘「日本芸能発祥の地」はここだと認識!【土舞台】

奈良県桜井市の外れ15分以上は歩いたかなぁ 細い道が続きさて?合っているのか半信半疑ようやく到着出来た 開けた広場が現れこれこそが土舞台なる史跡 飛鳥時代に遡り百済人がこの地で「伎楽」を伝え聖徳太子が地域の人々に学ばせたとある 現在でも定期的に何らかの音楽行事が行われているようだ 地味な旧跡だが個人的趣味と合致し意義深い

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☆湧き出ているとは言い難い泉の現状【朧の清水】

京都大原の里歩き三千院から寂光院へと繋ぐ道沿いにこの泉がある 「建礼門院が姿を写したと伝わる泉」相当由緒ある場所だと思われる 湧き出ている感覚は受けとれないが汚れ濁ってはいないから水の代謝はありそうだ 往路では見飛ばし帰り道で何とか発見できてラッキーだった

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☆諸説あるようだがどの説もロマンに溢れ捨てがたい【鶯塚】

「長柄の長者の娘が死んで鶯が悲しみのあまり後を追うように死んだので塚を作った」といういわれが最も的確だろうね 椋の古木を取り囲む朱の鳥居が鮮やか 周りの喧騒から逃れここだけが孤島のような佇まい 地域の人々によって大切に護られてきた歴史を感じる 清々しい気分で一休み天六からの歩き旅は奥が深い

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☆私だからこその発見だと鼻高々芸能を司る御神木【影向之松】

平安時代「若宮おん祭」においてこの松の前で芸能が披露されてきた 桃山時代には専用の能舞台まで製作されたとある 惜しくも平成7年に枯れ果て後継の松が植えられた 切り株からしてかなり立派な御神木だったはずで残念な限りだ 奈良春日大社「一之鳥居」くぐってすぐ右手にあるが気付かない方が多いだろうね

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☆儒学者が興した学問所跡地を訪ねる【梅花社跡】

我ながらよく見つけたと思うよ ビルの壁の片隅に消え入りそうな文字で記されてあった 門下生は1500名を擁し「篠崎小竹」が亡くなった時には葬儀の列は延々と続いたとある 西横堀川から少し東に入った場所にこの学舎があった ※大阪北浜からの散策でした

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☆伏見から移住してきた町人によって掘られた【京町堀川跡】

京町堀川は西横堀川から分流した川で物資の運搬などに利用された 昭和36年に埋め立てられてしまい何の痕跡も残りはしていない 小さな公園の一角に記念碑があり記憶に留めておきたい 大阪メトロ肥後橋駅から阪神高速沿いに南下じっくり探せば見つかる

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☆京都大学の源流がこの地だとは驚きの真実【大阪英語学校跡碑】

大阪谷町筋沿いにある記念碑何気なく読み上げるとえぇそうなんや!みたいな食い付きが生まれた 明治22年に京都に移転し第三高等学校となったとある それだけなら話が発展しないがその高等学校が現在の京都大学に繋がると聞くと心持っていかれる 無駄に長い年月生きて来たみたいに思え無知な自分が面白いとさえ感じてしまうね

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☆公家の豪邸跡地が細々ながら令和に引き継がれる【九條邸跡】

五摂家の一つに数えられ公家の中でも特別な格式を誇る ただし今では茶室と鎮守だった厳島神社だけが残るのみだ 京都御苑の最南端、丸太町通りに接してこの宮家跡があった 茶室(拾翠亭)の内部公開あるようだが時間の関係上スルーしておいた 当時の宮家では邸宅と庭園はマストなセッティング雅な時間が約束されていたようだ

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☆平安時代創建の大寺院内にあった祠が現存【白王寺跡・吉武大明神】

寺院があった残像は確かに感じられた 空海の祈祷で湧き出た井戸があったなんてワクワクするようなファンタジー 空海の名前が出るだけで食いついてしまう私は頭から爪先まで弘法大師が憧れの存在だ 堺市北花田散策そこに何があるの?と聞かれたらまだまだ歩き尽くしていない道があるからと答えるしかない

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☆池に住む龍神が井戸を開いたとの伝説あり【龍神井】

この祠の後ろ側にはかって広大な池があったようだ 現在では阪南高校のグラウンドに姿を変えている この井戸の水を神様に供えると雨が降るとの言い伝えがあり当時の村民はそれを信じてお祈りしていた 何気ない史跡にも深い歴史が潜んでいるわけだね ◎地名的には大阪市住吉区あびことなる

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★鏡や勾玉は持ち去られ断定は出来ないが状況証拠で間違いなし【倭姫命の旧跡地】

楠の切り株の根元から天井石が掘り出され中央が割れていた 文献により倭姫命を遥拝する神社がありそれがこの地だと信じて里人は千田寺を建て遺影を慰め楠を植え霊所としてきた この考察はたぶん正しく現代にまで思いが引き継がれている ◎三重県志摩地区伊雑宮すぐそば

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☆京の中心地に立ち愛を感じる【平安京大極殿跡】

平安京時代の朱雀大路が現在の千本通りだとこの歳になって知った 現在の京都繁華街からは大きく西にずれている 今では観光客すら寄り付かないこの地に平安京が確かに存在していた事を知り感動! 大極殿跡は小さな広場になっていて母子が無邪気にボール遊びに興じていた 千本丸太町これまた何もない交差点だが平安京を指し示す案内板を読みふけった 今回の町歩きルートはここまでさぁさぁ…

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☆老年期に入っても初めて知る過去事実けっこう多し【ラジオ塔】

ラジオが高額で庶民では買えなかった時代みんなで集まり聴くためにラジオ塔なる構造物が造られた 昭和16年には全国で460箇所あったと資料に書かれてある 現在では生き残ったラジオ塔20基ほどのみ その一つがどういうわけか京都北部「ケーブル八瀬駅」近くにポツンと存在 なせここにあるかはクエスチョンだった

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☆源義経ゆかりの松なら後世まで伝え聞かれる【判官松の跡碑】

住吉大明神に航路の安全を祈願したのち屋島に出陣したそうだ 松の木は地域の人達に親しまれてきたが明治10年に焼失石碑が設けられた 実際に松のあった場所から太平洋戦争後に現在の「大和田住吉神社」内に移設された ◎阪神「千船駅」から神崎川を渡り対岸