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よくあるご質問

アイヌは侵略者であって、先住民族ではない。

 アイヌのウイキペディアのはじめの文章の中に以下の文章があります。

「古墳時代にアイヌが寒冷化により東北地方に南下」
この内容をもって(寒くて、東北に避難してきた人達であって、侵略者はちょっとかわいそうな気がしますが)歴史上結果的には侵略者ではないでしょうか?
(第一添付図の一番右の図を参照してください。)

一方で下側には以下のような記載があります。
「近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。樺太(サハリン)起源とされるオホーツク文化は5世紀ごろ北海道に南下したが10世紀ごろ姿を消している[77]。」から、オホーツク人と縄文人とが混血をし、アイヌ人が誕生したのではないか(推測の域を出ない)・・・それで、5世紀には北海道→5~7世紀には東北地方に侵略し、しばしば先住民(縄文人・漢人・縄文人と漢人の混血)を困らせていたので、阿倍比羅夫が討伐に出かけたが、これといった武器のないアイヌは、すぐに降参し、仲直りのために宴が始まったようです。

 また、斉明天皇のときに、蝦夷が唐に連れていかれたとの記載が日本書紀にありますが、奴隷的な感じではなく、親善大使・和気あいあいとした内容(天子は、「自分は蝦夷の顔や体の異様なのをみて、大変奇怪に感じた。使者らは遠くからやってきて苦労だったろう。退出して館むつろみで休むがよい。また後に会おう」と言われた。)のとおり、縄文人・漢人とは一線を画した、白人系の容貌がイメージされ、定住していない狩猟民族であることも書かれており、アイヌに間違いないと考えられます。

 それでは、なぜエミシとエゾとは異なるような、論理が存在するのか・・・おそらく・・・乙巳の変で、蘇我蝦夷は(自殺ではなく)逃亡し、まず出雲(蘇我氏の発祥の地)に行き、仲間を引き連れ、東北に逃れ、しかしながら途中で死亡し、能登島に墓が建てられたと見ています。

 斉明天皇・中大兄皇子等が東北まで、追っ手を出したかどうかわかりませんが、能登島の墳墓を確認し、また馬子の墓などを解体し(石舞台のみが残った。)決着したのではないかと考えています。

 このときの蘇我蝦夷の逃亡から(東北地方への征伐の印象が)、大和政権に従わない人達には、蝦夷(エミシ)と蝦夷(エゾ)の両方が存在するような印象になっていったのではないでしょうか?

 忌憚なきご意見をお願い致します。

コメント

信長たろうさん

2021年06月01日 15:27

SIRIUS2016さん、
こんにちは、鋭いご指摘をありがとうございました。
基本的に方墳から、出雲王権らしきものがあった。
添付の銅鐸の一式の普及状態から、二世紀ころの出雲王権の支配強化をイメージしています。
仰せの通り、確かに現状いくつかの矛盾があり、もう少し調査して、矛盾の生じない内容にまとめたいと思います。
もう少し時間を下さい。ありがとうございました。

SIRIUS2016さん

2021年06月01日 12:17

信長たろうさん、
信長たろうさんは、四隅突出型墳丘墓と大量の銅鐸の存在を出雲王朝の根拠として挙げたのであって、銅鐸の大型化を根拠としていたのではないですよ。都合が悪くなると言うことをころころ変えないで下さい。

四隅突出型墳丘墓は出雲から始まったのではありません。
四隅突出型墳丘墓の祖型である方形貼石墓は、弥生中期中葉(BC2世紀)には始まっています。

【一世紀末ごろ、急に大型化するは、出雲王権が持ち込んだからではないでしょうか?(原文のまま)】
とありますが、Wikipediaに「近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろう」とあって出雲で作られていません。また、「近畿式は、近畿一帯を中心」とあり、出雲中心ではないですよ。
それに、1世紀末に蘇我氏が朝鮮半島から出雲に持ち込んだものが、間髪入れずに信濃や遠江にまで広がったのですか?

信長たろうさん

2021年06月01日 11:43

SIRIUS2016さん、

おはようございます、この場に相応しい、素晴らしいコメントをありがとうございました。ちょっと長くなりますが、銅鐸のウイキペディアの歴史の部分を抜粋・掲載させていただきます。

『日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している[12]。』
 →この部分が、BC二世紀頃の漢の(環濠集落)侵略によって、直接持ち込まれたのではないでしょうか?

『1世紀末ごろを境にして急に大型化する(IV式:突線紐式)。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種がある[注釈 5]。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。
 近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られた。2世紀末葉になると近畿式のみとなる。銅鐸はさらに大型化するが、3世紀になると突然造られなくなる。』
→一世紀末ごろ、急に大型化するは、出雲王権が持ち込んだからではないでしょうか?(想定ですが、銅鐸の文化は中国から朝鮮半島の四郡設置のときに持ち込まれ、
北倭:出雲王権の出身地で、大型化されたのではないでしょうか?、また年代ですが、一世紀末頃になっているので、私が一世紀と書いたり、二世紀と書いたりしていることは、両方ともそこそこ当たっていることになりませんか?実際にはよくわからない・・・一世紀末頃とご理解ください。)

→「三世紀になると突然作られなくなる」は邪馬台国に、出雲王権が従ったことを意味していると思います。(多分ですが・・・前方後円墳で共同統治の形態ながら、邪馬台国≧出雲王権だったのではないでしょうか?)

 次に『「南倭と北倭は燕に屬す」などと読んでいなかったのです。
信長たろうさんは、自分には宋代の中国人よりも漢文の読解力があるとお思いですか?』ですが、もう少し調べてみますが、よくわかりません。(分かりましたら、追ってご報告いたします。)
 「火のないところに煙は立たない」の格言で、「南倭、北倭」それらしきものがああったという認識です。

 今回のご質問をいただき、曖昧なところが明確になりました。感謝しております。

SIRIUS2016さん

2021年06月01日 08:15

信長たろうさん、
四隅突出型墳丘墓の最も古いものは、広島県の三次盆地にあります。その中の矢谷墳丘墓の築造年代につきまして、以前に資料で弥生時代中期と見た記憶がありましたので、BC2世紀と書きました。改めて調べ直したところ、弥生時代後期前葉(1世紀)となっていました。従いまして、四隅突出型墳丘墓がBC2世紀に始まっていたと言うのは、私の誤りでした。お詫び申し上げます。但し、Wikipediaにも「突出部の起源は、弥生時代中期後葉(BC1世紀~1世紀)まで遡る。」とあるように、2世紀以降に出現したものではありません。
なお、四隅突出型墳丘墓の初期のものは全て三次市等の広島県にあり、四隅突出型墳丘墓はまず中国山地中央部の盆地に発生し、そこから出雲に広がったという説が有力です。即ち、四隅突出型墳丘墓は出雲から始まったのではありません。
また、方形貼石墓は、弥生中期中葉(BC2世紀)には始まっており、方形貼石墓が四隅突出型墳丘墓に発展したことは、学会で概ね理解を得られています。

質問がありませんでしたので、銅鐸がBC2世紀以降のものであることは承知していることと思います。Wikipediaの冒頭にも「銅鐸は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。」とあります。


2021年05月31日 12:29の投稿には「一世紀に来て」とありましたが、2021年05月31日 22:18の投稿では再びAD2世紀頃に戻ってしまいました。
四隅突出型墳丘墓はAD1世紀以降で銅鐸はBC2世紀以降です。AD2世紀に蘇我氏が朝鮮半島から出雲に渡来して四隅突出型墳丘墓と銅鐸を齎したと言うのは、年代が合いません。
話が完全に元に戻ってしまいました・・・


私が2021年05月31日 08:29の投稿に書きました山海経の「蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕」の読み方につきまして、無視されていますが、何らかの見解は無いのでしょうか。

信長たろうさん

2021年05月31日 22:18

無識さん、こんばんは
いくつかの質問にお答えしておりませんでした。

まず、アイヌが東北地方への侵略者であることは、アイヌのウイキペディアの文章から読み取れます。以下の感じです。

「オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。樺太(サハリン)起源とされるオホーツク文化は5世紀ごろ北海道に南下した」→『縄文人とオホーツク人の混血でアイヌ人が生まれた(想定)』→「古墳時代にアイヌが寒冷化により東北地方に南下」の、以上のウイキペディアの文章より、ほぼ証明されています。

また、縄文時代→弥生時代(縄文人の時代)→古墳時代の流れを、図解しましたので、ご確認され、もしご質問がありましたら、お願い致します。
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1.縄文時代:半島&列島は縄文人の国でした。
2.弥生時代初期(BC10~5世紀頃)は同様に半島&列島は縄文人の国でした。
3.弥生時代中期(BC2世紀頃)は漢の拡大路線で半島には4郡設置(ただし南倭と北倭は残った)列島側は、環濠集落等で、漢民族の国になったと考えています。
4.弥生時代晩期(AD2世紀頃)は、出雲王朝(北倭:蘇我氏)が半島北側からやってきて、出雲~北陸~山陽~近畿~一部の九州を掌握したと考えています。
5.古墳時代(AD三世紀後半~)は、邪馬台国(南倭:神武天皇)がやってきて、出雲王朝と共同で、ほぼ日本全土を掌握し、縄文人の国を取り戻したと考えています。(前方後円墳がその象徴)
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信長たろうさん

2021年05月31日 16:05

SIRIUS2016さん、
こんにちは、再度調べ直してみましたが、「これらは全てBC2世紀頃に既に始まっています。」というSIRIUS2016さんの情報を私は確認できませんでした。

また、以前投稿した内容を以下に再掲します。
『祭器としての銅鐸の一式の普及が、出雲地方から始まっていますので、1世紀頃に出雲王朝ができたと考えています。2世紀ごろに、二式の銅鐸が近畿地方で急増しており、出雲王朝が近畿を制圧したしたことが分かります。(祭器としての銅鐸が見つかった地域は出雲王朝の支配地域と考えてよいと思います。)
 また方墳の存在から、北九州も3世紀になって出雲王朝が支配しています。(支配の時間が短く、銅鐸を普及できなかったと考えられます。)』

「四隅突出墳」のBCの年代のものが私は確認できていません。どこに掲載されているかをお教えください。

信長たろうさん

2021年05月31日 12:34

SIRIUS2016さん、
ご回答が抜けていました。BC二世紀頃に始まっているとしたら、確かにかなり崩れます。もう少し確認します。ご指摘をありがとうございました。

信長たろうさん

2021年05月31日 12:29

SIRIUS2016さん、
こんにちは、そんなに議論を加速させないでください。
まだ、出雲王権がいつ来たのか、明確にできておらず、申し訳ありませんが・・・
すくなくとも、SIRIUS2016さんの言われた、BCではないと考えている(高句麗に押されて仕方なくやってきたから)と先程説明していますので・・・

新しい情報によって、どんどん内容は修正していますが、気分的なものではありませんので、ご容赦下さい。

ただし、種々の情報から出雲王権が二世紀~三世紀にあったとは思っていますので、いましばらくお待ちいただけませんか?(どこまでが、漢の環濠集落で、どこからが出雲王権の拠点になったかが、調査できていません。)
 一世紀に来て、二世紀~三世紀に支配を強めたのか、二世紀に来て、すぐに支配を強めたのかが分からないので、曖昧です。二転三転しているようですしたら、お詫びいたします。もし分かったら、お教えください。

SIRIUS2016さん

2021年05月31日 09:44

信長たろうさん、
『一世紀頃に入り』とあるところを見ると、結論として、蘇我氏が出雲に来たのは1世紀ということですね。AD2世紀説は撤回してAD1世紀に変更したと言うことですね。
以前の話題『縄文人万歳』の中で、出雲王朝があった根拠として、四隅突出型墳丘墓や大量の銅鐸・銅剣等を挙げています。しかし、これらは全てBC2世紀頃に既に始まっています。AD1世紀に蘇我氏が出雲に来て出雲王朝を開いたのだとしても、年代がまったく合いません。
結局、下記のいずれかに主張を変更せざるを得ないと思うのですが、いかがでしょうか。

① 四隅突出型墳丘墓や銅鐸は蘇我氏が朝鮮半島から持ち込んだのではなく、元から出雲にあった
② 蘇我氏が朝鮮半島から出雲に来たのはAD1世紀ではなくBC2世紀以前

しかし①を採用した場合、四隅突出型墳丘墓や大量の銅鐸・銅剣といった出雲王朝の根拠を失うことになり、出雲王朝説は何の根拠も無い机上の空論になってしまいます。
となると、②を採らざるを得ないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

いずれにしても、蘇我氏高句麗説の撤回や出雲渡来時期を2世紀から1世紀に繰り上げるなど、どんどん主張が崩れていきますね。
元々が矛盾だらけの主張だったので、当然のことと思います。

信長たろうさん

2021年05月31日 08:40

SIRIUS2016さん、
おはようございます、この場に相応し議論をありがとうございました。

実は、い出雲王権が来たのか?王権のはじまりの年代はまだ分からないのです。
しかしながら、BC二世紀は早すぎると思います。その頃は、漢の軍事侵攻(半島に四郡設置と同時に)北九州ルートと出雲ルートがあったのではないかと思っています。
(漢側から見て、どんな強敵が居るか分からないので、一通り両方の大部隊が関東まで縄文人を殺戮しながら侵攻したのではないかと考えています。軍事侵攻の後から、入植者が続けてはいり、どんどん環濠集落をつくり、数年程度で列島のほとんどが席巻されたと考えています。)

出雲のあたりも、複数の漢の環濠集落ができたと想定しており、その後出雲王権が攻略する時期は、「半島での4郡設置後、北側に逃げた武力集団(帯方郡のあたりで人口爆発を起こしていたと想定される縄文人の集団)が、今度は高句麗に圧迫されて、将来を考慮して、出雲に武力集団として入植したと考えております。」ので、一世紀頃に入り、二世紀ころから多方面の支配を強めていったと考えています。三世紀がピークで、その後は邪馬台国の共同統治ながら、出雲王権としては衰退した(蘇我氏ののふるさとして、大切にされたとは思いますが)と思います。

従いまして、BCのころは漢の環濠集落が出雲付近を支配していると思うので、調べきれたら、情報提供をお願い致します。私も継続的に調べてみます。

SIRIUS2016さん

2021年05月31日 08:29

信長たろうさん、
宋の羅泌纂が書いた『路史』には「冨冝 帝堯取冨冝氏史記班表作散冝散冝為二登北 帝舜之三妃傳多作癸北姓纂又作癸比 經云國在鉅燕之南倭之北屬燕」という記事があります。
この文章の「經云國在鉅燕之南倭之北屬燕」の部分は、山海経の本文とは違って『鉅燕之南倭之北』と『之』という字が入っているため、『(山海)經に云う、國は鉅燕の南、倭の北に在り、燕に屬す。』と読み下します。これ以外に読み方はありません。
つまり、宋代の中国人は、「南倭と北倭は燕に屬す」などと読んでいなかったのです。
信長たろうさんは、自分には宋代の中国人よりも漢文の読解力があるとお思いですか?

SIRIUS2016さん

2021年05月31日 07:32

信長たろうさん、
先の私の投稿では、出雲に来た年代を問題にしているのに、「出雲王権は、いつ頃支配を強めていったとお考えですか?」と、まるで支配権の強化の年代が問題であるかのような書き方をしています。
またまた論点がずれていると言わざるを得ません。信長たろうさんがこのように論点をずらすときは、有効な反論に窮したときということが分かっています。

先の投稿の論点は、信長たろうさんが、蘇我氏が朝鮮半島から出雲に来て出雲王朝を開いたとしているAD2世紀という年代です。
信長たろうさんが出雲王朝存在の根拠として挙げた四隅突出型墳丘墓や銅鐸はBC2世紀には既に存在しました。従って、蘇我氏が出雲に来たとしたら、BC2世紀以前でなければならないはずです。

信長たろうさんの2021年05月30日 13:42の投稿では、「弥生時代晩期(AD2世紀頃)は、出雲王朝(北倭:蘇我氏)が半島北側からやってきて」と書いていましたし、話題に添付された図にも「2世紀頃」として「縄文系の部族(蘇我氏)は、出雲を目指して、逃げてきたと考えています。」とあります。
それにも関わらず、今回の返信には何故か、「二世紀頃から出雲王権は活発に活動し、支配を広めていたったと考えるのが自然ではないでしょうか?」と、まるでAD2世紀以前から出雲に居たかのような書き方をしています。このような主張こそ、自然ではないと思います。
蘇我氏がAD2世紀に出雲に来たと言う主張は、早くも撤回したのでしょうか。

無識さん

2021年05月31日 06:40

信長たろうさん、おはようございます。
「古墳時代にアイヌが寒冷化により東北地方に南下」
この内容をもって(寒くて、東北に避難してきた人達であって、侵略者はちょっとかわいそうな気がしますが)歴史上結果的には侵略者ではないでしょうか?

このウイークペディアのこの文言事態が不用意な書き出しが問題だと思います、日本に来た渡来民族(有史以前を含めて)すべてが侵略者というべきではないでしょうか。
「稲作文化をもたらした民族、大陸や朝鮮半島から文明をもたらした民族」を肯定しているのはおかしいと思います。
大和朝廷の成り立ちを見ると朝鮮半島からの来た民族の侵略とも言えなくはないでしょうか。
それらの民族が日本固有の民族と融和して混血して今の日本民族が成り立っているので、アイヌもしかりではないでしょうか。

「侵略者」という言葉は悪意である意味付けがしますがどうでしょうか。

水辺の少年さん

2021年05月31日 01:24

信長たろうさん、

ナグコハイネガ~

アイヌ大忙し!
縄文人にされたり、オホーツク人にされたり、蝦夷、白人系、さらにはナマハゲ👹

>秋田の「なまはげ」は、アイヌがいたことが影響

ランマルさん

2021年05月30日 22:20

信長たろうさん、
了解です。
また、水辺の少年さん達とバトルやりましょう。
笑う。
お休みなさい。

信長たろうさん

2021年05月30日 22:16

ランマルさん、
こんばんは、ネイティブアメリカンの前に、その前にも居たという話、面白そうだから、今度話題にあげてみてはいかがでしょうか?
すぐ自慢をする人が入りましたが、要注意です。Yさんへの非礼や浦島以上の、ひどい言葉が乱舞しますよ。あなたなら、うまく立ち回れると思いますので、また十さんは、探求クラブに相応しい、素晴らしいご投稿をされる方なので、コメントをお願いします。(私の知らない内容なので、私はコメントできません。)
おやすみなさい。

ランマルさん

2021年05月30日 21:51

信長たろうさん、
コメントありがとうございます。
コメント内容を今一度、吟味しますね。
 今心配してるのは、ネイティブアメリカンの前にアジアからの先住民がいたと言われ事です。
 実際、以前貴方にコメントした
ウイルスは、日本の沖縄、南九州、離島、飛島、北海道のアイヌの人、カリフ海、南米チリ、アフリカの一部の人、アジア大陸でははチベット人が持ってます。
 Sさんに報告したところ、真摯な連絡をいただきました。
 水辺の少年さんには、まだ報告してません。
 ちなみにこれ、寝床のスマホで書いてます。誤字脱字お許し下さいね。

信長たろうさん

2021年05月30日 21:33

ランマルさん、
こんばんは、おかしな内容を教えるから、何を言っていっているのか・・・
阿倍比羅夫は討伐にでかけましたが、相手が先に降伏するので、ほとんど戦っていないんです。騎兵隊とインディアンは、死闘をすることがよくありました。(それにしても、三問のうち二問の文章構成からおかしい・・・)
 きちんとご指導をお願い致します。

余談ですが、秋田の「なまはげ」は、アイヌがいたことが影響していたような気がしています。

水辺の少年さん

2021年05月30日 21:01

ランマルさん、
>アイヌをネイティブアメリカン、
安倍比羅夫を騎兵隊に置き換えればいいですよね。

そうです、それなら太郎さんでも理解できるでしょう。
まさか「ネイティブアメリカンは侵略者であって、先住民族ではない。」とは言わないでしょう。

信長たろうさん

2021年05月30日 18:40

無識さん、
こんばんは、コメントをありがとうございました。
ご指摘のとおり、ちょっと書きすぎたと思っています。
東北では侵略者でも、少なくとも北海道では先住民族のような気がしています。
どこかで、落としどころを考え、修正します。
ご指摘をありがとうございました。