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よくあるご質問

新約聖書の矛盾

新約聖書の中で最も重要な場面、イエスの磔の場面で〜
十字架に架けられて死ぬ間際にイエスが言った言葉が3種類ある。

マタイ福音書とマルコ福音書では
「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいる。

ルカ福音書では
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫んでいる。

そしてヨハネ福音書では
「成し遂げられた」と言っている。

なぜ、それぞれが違うのだろう?

そしてマタイ福音書では、イエスが磔になる前に、弟子たちはみんな逃げた、と言っている。
つまり、イエスが十字架に架けられた現場には、弟子たちは一人もいなかった、ということになる。

では、これらの言葉は誰が聞いたのだろう?

そして、もしこの言葉がみんな本当にイエスが言った言葉なら、
なぜ、ひとつにまとめず、別々に分けて書かれたのだろう。

それに、
「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉と、
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉は、
心理的に見ても明らかに矛盾している。
最初の言葉は、神に対して疑っているが、二番目の言葉では、神を信頼している。
どちらも真実だったなら、この心境の変化はなぜ起こったのだろう?

そしてヨハネ伝では「成し遂げられた」と言っている。
ということは、イエスは自分が十字架に磔にされたことに満足していたのだろうか?
少なくとも、「成し遂げられた」とは、満足の意味がある。
だが、そもそも、何が成し遂げられたのか、それは書かれていない。

それに、それぞれの福音書にマタイやマルコの名前が付けられているが、これは彼ら本人が書いたものではない。
イエスの死後100年ほど経ってから、イエスの弟子の名前を借りて別の人がまとめたものである。

繰り返すが、そもそも磔の現場にマタイやマルコなどはいなかったのだ。
彼らは、イエスの死んだ時の様子を、直接には知らないのである。

コメント

よしひろさん

2013年08月16日 11:52

保護者さん、
とても興味深いコメントをありがとうございます。

ドロレス・キャノンについては知りませんが、同じような内容を他のところで知った記憶があります。

そういう意味では、聖書のこのイエスの磔の場面は、後世の人の霊視によって書かれた可能性もあるでしょうね。

イエスの磔に関しては、他にもいろんな説があります。

イエスは修行中にインドに行ってヨガを学んだので、磔にされた時も自分の肉体をコントロールできたので、完全には死なず、だから復活できたのであって、その後、カシミールに行って、100歳ほどの長寿をまっとうした、とか〜

磔の時に言った、
「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉と、
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉の間に悟りを得た、
それで、この心境の変化が表われた、とか〜

それでも、イエスは生前に何度も霊界~神の王国〜のことを語っているので、
自分が磔にされることに対しては達観していたでしょうね。

でも、
キリスト教徒が常に磔にされたイエスの像に礼拝するのは、イエスの教えとは違うのではないか、と、ずっと感じています^^

保護者さん

2013年08月16日 10:57

ドロレス・キャノンのヒプノセラピーの対象者の一人が前世でキリストの処刑を見ていました。前世でのその人の名前はSuddiです。しかも処刑の日にはSuddiはすでに死亡していましたので彼の魂が見ていたのです。霊界からは物事が更によく分かりますので、より正確な記述がされたと思われます。そのSuddiが魂として見たのが以下です。

Yeshua(イエスは当時そう呼ばれていたそうです)は十字架に磔にされました。た両わきには、同様に貼り付けられた犯罪者(泥棒と殺人者)がいました。霊界にも、彼にそんなことがされるのを驚きで見守っている人が何百人もいました。

十字架に掛けられたYashuaは肉体的な痛みは感じないようにしていました。そして人々が何をしているのか知らずに彼を処刑していることに対し大きな愛を感じていました。そして多くの人達がやがてそのことを知る時が来ることを知っていました。

それまで青空だったが、十字架が立ったときに黒い雲が空を覆い始めました。

そして彼は神(Father)に自分を許してくださいと言ったのでした。(これを聞いたドロレスは、何も悪いことをしていないのに何故そんなことを言ったのでしょうか、と質問しました。長い沈黙の後、Suddiは分かりませんと答えました)そしてまた、父よ、この二人の罪人を許してやってください、彼らは自分たちがしたことの意味を知らないのです、と言いました。

犯罪者の一人は彼に何か言いましたが、何て言ったのか分かりません。別の一人は彼を叱責するように「貴方は良い人を知っていたはずではなかったか(訳注:なんで神が貴方を助けてくれないんだ)」と言いました。これに対して彼は「その人は今日私のところにきてくれます、、、その人の世界に行きます」と答えました。

(これに対しドロレスは、それはどういう意味ですか、と訊ねました)

彼がここ(訳注:霊界)に来るということです。普通はそうでないのですが(訳注:死の直後はしばらく地球にいるという意味だと思う)彼は、、、私が思うに、、、、死に直面したときにでも彼は仕組みを理解していたようです。

その後イエスが何か話したとは書いてありませんし、話さなかったとも書いてありません。

これは Jesus and The Essenes (1992年出版)に基づいています。

催眠術で過去に戻れることが可能な現在、過去に起きたことの真実を知ることは可能だと思います。

Kちゃんさん

2013年08月13日 17:18

今となっては、真実は誰にもわかりませんね。(^_^;)

もし、すべてが弟子のでっちあげであったなら、それが世界中に影響を与えているのですからすごいものです。

イエスは、ちょっと霊感のある、自分を神の子だと思い込んでいる、ただの大工だったかもしれません。
そして死後、自分が救世主になってしまったことに、戸惑っているかもしれません。
イエスに妻子がいたことも、抹消されています。

(#^.^#)

M.マリアさん

2013年08月13日 15:36

>わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか

これはですね、実は深い深い神への賛美の詩の冒頭の言葉なんです。
(旧約聖書 詩編22章)

この言葉について書かれた詩で、私が大好きな詩があるので、ご紹介します。
良かったら読んでみてください♪

>それにしても、聖書はなぜ、自分が罪深いということばかり書かれているのでしょう?

全くです!!^^; キリスト教に惹かれ聖書研究会に通い始めても、「原罪」生まれながらに罪を背負ってきてる・・・ってところで嫌になって、やめてしまいます^^;;

イエス様の教えとキリスト教は無関係なのでは・・・・とまで思ってしまいます^^;







たそがれの髑髏ヶ丘(安西均)

たそがれ迫る髑髏ヶ丘(ゴルゴタ)刑場に、
三基の十字架が打ち捨てられている。
この日、三人の処刑が行われたばかりだ。
十字架の一基には、ヘブル語と
ラテン語、ギリシャ語で書き分けた、
捨て札がまだ打ち付けられたままである。
それは皮肉な嘲りの文字で
「ユダヤ人の王なるナザレのイエス」と。
彼らは正午には十字架に吊るされた。
エルサレムの街の群集は、
祭りの演し物でも見物する楽しみで、
ぞくぞくとこの丘にやってきた。
名も知れぬ二人の強盗はともかく、
イエスの処刑ぶりがお目当てだ。
「きっと奇蹟が起こって助かるぜ」「違えねえ」
「でなきゃ、奴はイカサマよ」
「うん、それがきょうの見物さ」

太陽は青空の奥で高くなったが、
群衆の前に奇蹟は現れない。
待ちくたびれた罵り声は、
中央の十字架でうなだれているイエスに集中する。
「自分で自分を救って、さっさと
十字架から下りてくればいいではないか」
「神の子なら、そのくらいできるだろうに」
嘲るのは街の群衆ばかりでなく、
処刑立会人の祭司長たちも、律法学者や
長老たちも、口々にそう言いつのる。
「他人を救って自分を救えないとは、
何ともお粗末な話しではないか」
「くやしかったら、たったいま十字架から下りろ」
「この男は、自分は神の子だと言っている。
それなら間違いなく神が助けにくるであろう。
神にその思し召しがあればの話しだが」
それでも奇蹟が起こる気配はなく、
春の空はおだやかで、十字架に
イエスは襤褸ぎれのようにぶらさがっている。

太陽の位置は、三時にとどまっている。
それまで時折、呻き声だけあげていたイエスが、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
「わが神、わが神、なにゆえ、
わたしを見捨てたもうのか」という、
『詩編』第二二の冒頭句である。
これは神に裏切られたという嘆きをこめた、
<人の子>イエスの絶望であろうか?
奇蹟という共同幻想が凋んだ群衆は、
興ざめた顔で、ちりぢりに丘をくだっていく。
しかし、ごく数少ない者は知っている。
「レマ、サバクタニ」のつづきは絶望ではなく、
熱いエホバ讃行に転調していくことを!
彼らは死んだばかりのイエスに代わって、
めいめいそれを口ずさみつつ、家に帰る。
「地のはては皆おもひいだしてエホバに帰り、
もろもろの国の族(やから)はみな前にふしをがむべし」
奇蹟によっては延命されることなく、
万人と等しい死を遂げたために、
イエスは真の<神の子>となったのである。
それこそが、神の御意(みこころ)にほかならなかった。
紀元三〇年春。この日、ゴルゴタの丘で、
打ち捨てられたままの十字架のそばに、
アネモネが一輪、暮れ残っている。

よしひろさん

2013年08月13日 15:12

めいさん

>それにしても、聖書はなぜ、自分が罪深いということばかり書かれているのでしょう?
イエスの思想なのでしょうか?

聖書は後世の人によって、その時代の権力者が利用するために、都合よく書き換えられたらしいです。
ですから、たぶん、この罪深く感じさせるところも、そのように書き換えられた部分だと思いますが・・・

聖書の中でも、イエスの言ったことは誰も理解できなかった、と書かれてあるところもあります。

でもキリスト教は、その聖書を元に教えているわけですから、ますます矛盾を感じてしまいます^^

Kちゃんさん

2013年08月13日 12:54

もしかしたら、全部、ウソだったんじゃないかと疑いたくなりますね。(^_^;)

江原さんは、ブッタとイエスは、霊能力者だったと言っています。
霊能力があるものを、神のようにあがめることは、現代でもあります。
もし、江原さんがその時代に生まれていたら、ブッタやイエスのようになっていたでしょう。

それにしても、聖書はなぜ、自分が罪深いということばかり書かれているのでしょう?
イエスの思想なのでしょうか?

宗教というのは、誰かの思想を植え付けられてしまうので、とても怖いものです。

(#^.^#)