趣味でつながる、仲間ができる、大人世代のSNS、趣味人倶楽部(しゅみーとくらぶ)

よくあるご質問

文書の一片さえも残されていない幻の飛行場

故郷の飛行場の完成は昭和二十年八月十日である。飛行場開きの式典と航空ショーが行われたのは昭和二十年八月十三日。しかし飛行機の数に対する記憶は甚だ曖昧である。
「赤トンボ」はジュラルミンのパイプを主要構造体とした、複葉単発で細部の骨組みは木製、複座で布貼りの飛行機だった。
 その練習機が十機ばかりとジュラルミン製の双発が二機だったと思う。小さな「赤トンボ」には簡単に攀じ上る事が出来たが、大きな方は攀じ上るのが大変だった。あのての飛行機に乗るには、先ず翼へ上り、更に操縦席へと移動するのであるが、身長が僅かに、一メートル・二〇センチ足らずの私には、それが非常な難関で大変なアクロバットの連続だった。
 操縦席に腰掛けて操縦桿を握ってみると、思っていたよりも軽く、すーっと動く、意外に軽かった。余りにも軽く、何となく頼りなさを感じたことも否めない。インテリアめいた物が一切無いから、操縦桿を動かしたり、両足のペダルを踏み込むと、胴体の前方後方へと或いは両翼方面へと、縦横無尽に張り巡らせてある、直径二ミリくらいのワイヤーが動くのがわかる。未発達の電子機器のせいもあって、操作が機械的に行われるように設計されていたものと思われる。オレンジ色に彩られた胴体も、内部からみると白く塗られた、たった一重の布で、鉛筆の先でつつけば、簡単に穴が開くような感じで心細かった。
 戦争末期には、暗緑色に塗り替えられ、実用機として南海の島々に配属されていたと聞くが、ひどいものと思う。「零戦」でさえも、戦争末期の英米には、その戦闘能力を上回る敵機が開発されていた筈である。昭和一桁代の、それも布製の練習機が空中戦を戦えるものではあるまい、負ける為に飛び立つようなもので、その当時のパイロットの気持を察するに余りあるものがある。
 ジュラルミン製の双発機は、翼が更に高く、私のような小さな子供が、よく攀じ上れたものと思う。中へ入るとガランとしていて、JRの有蓋貨車の中へ入ったような感じだった。しかしそれより多少長い。天井は円くって、言うなれば蒲鉾型の長い貨車とでも言ったら良いのでは。
 操縦席は仕切があるわけでも無く、丸いメーター類が並んでおり、「赤トンボ」と違って、より完成された飛行機のようにも思われ、幼かった私が初めて間近に見る飛行機だが、強烈な印象は何故か残っていない。落下傘部隊が前線へ降下する際の、輪送機の内部と殆ど同じといっていい。エンジンの起動はのトラックの助けが必要だった。最も、その頃の自動車エンジンはクランク棒で始動させていた時代である。現在の飛行機のような緊急発進はとても、出来なかっただろう。至極のんびりしていた時代だった。
 滑走路の近くには、吹き流しが靡いており、私にとって憧れの的だった飛行士達が、白いマフラーと凛々しい焦茶色の飛行服、飛行帽に飛行眼鏡、黒い半長靴、それに落下傘バンドが両股をからみ背を回って腹の上の金具に留めてある。飛行機に乗り込む時は駆け足が常だったが、あの格好での駆け足は大変だったろうと今にして思う。
「高等双練」が、初めてあの飛行場に降り立った時、コンクリートのローラーを、大勢で引つ張って懸命に固めた滑走路が、ズブズブっとも五十センチほども沈んだ。見事なシュプールが描かれてしまった。小学校生だった私が、飛び跳ねても何の痕跡も残さなかった硬い滑走路が、ものの見事に、或るいは不様に沈んだのである。
 もう終戦当時の日本には燃料もなかった筈である。無茶な計画であった思う。雨が降ればたちまち泥んこになってしまう飛行場だった。たった五日間稼働しただけの飛行場だった。
 終戦。「高等双練」は記憶に無いが、「赤トンボ」は飛行場内で焼却処分された。暗闇の飛行場の片隅で「赤トンボ」の燃えている赫い炎が今も眼に浮かぶ。ただ一機、小学校に払い下げられた。子供達がリヤカーも使わずに二キロからある道を担いで運んだのである。辛い思いまでして運んだきた「赤トンボ」だったが、何時のにか校庭から消えて無くなってしまった。進駐して来たアメリカ軍からの命令で、撤収されたと言う噂もあったが。

コメント

コメントはありません。