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よくあるご質問

「超古代からの挑戦状!縄文ストーンサークル編」 最終章

最近の祭りは子供達の夏休みに合わせて、東京では7月〜8月頃の日曜日に開催されるのが多いようですが、鎮守の森の社が残る鎮守の祭りが行われる田舎の方では如何でしょうか?

本来、祭りの起源は豊穣祈願の春の祭りであり、収穫祭の秋祭りの様な「神への感謝!」的な要素が強かったのではないか?と、言う気が致します。
そう言う意味では、祭りは秋祭りの収穫祭の喜びの祭りというのが、儀式としての相場のような気がするのですが・・・・・

「祭りと祀りの重要性」
http://blogs.yahoo.co.jp/kodaiiseki2000/25904142.html


踊りの原点とも言う「神楽の舞」は、祈願や喜び、感謝の表現の一つで、神に捧げる踊りなのだ。人々が踊る舞台が集会場の広場であったり、村の集落を見下ろす高台だったりする。その場所が後のストーンサークルと言う事も考えられる。

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ストーンサークルは建設当初より、多目的な場所と考えられる。
ストーンサークル建設には皆の共同作業とも言う、公共事業的な要素を持っていたと思われる。集落が存在し人々は定着し、指導者的立場の人物が居たと推測出来る。完成の暁には、祝い事の舞が行われたかも知れない。
(ヨーロッパではHENGE・ヘンジと呼ばれる円形の土盛り<土手>工事が、最初の共同作業と考えられている)
共同作業の完成が、祭りの始まりの姿かもしれない。

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このような場所は、日本では神楽の舞台でも在り、先祖供養の場所でも在り、後には「聖地」的な意味合いが生まれたかも知れない。
喜びを御先祖と共有すると言う事は十分に考えられことだと思う。

古代信仰は、太陽と月に関する古代遺跡が多く残されている様です。
http://blogs.yahoo.co.jp/kodaiiseki2000/60449670.html

http://blogs.yahoo.co.jp/kodaiiseki2000/53171862.html


ストーンサークルは墓地説、集会場説、天体観測説、番組で仮説を立てた全ての条件を満たしているのだ。其れは当初の目的は個別に作られたとしても、村落が共同体的な組織的に運営されるに従い、統合されていった可能性は大きい。

スコットランドの古代ストーンサークル遺跡で非常に興味深い処がある。
ストーンサークルの脇に教会が建てられた古代遺跡だ。

「先住民のピクト族とキリスト教布教」
http://blogs.yahoo.co.jp/kodaiiseki2000/52643028.html

スコットランドの先住民「ピクト族」が、キリスト教との融合により誕生した教会という事が出来る。先住民の信仰と侵略者?との信仰が共存を図れた珍しい一例ではあるまいか?
その点に置いてこの遺跡は、非常に興味深い古代遺跡のストーンサークルと、言えるのでは無いでしょうか?

コメント

山下亭さん

2013年09月18日 07:21

みちさん

物事の思いや思考を伝える方法は、当時は口伝だったと考えられます。
口伝の場合は聞き間違いや勘違い、忘れる場合もあると思われます。

物証として「土版」を作ると言う発想は凄いという事です。
物を示して、目と耳の両方から「数の概念」を後世に伝えるという点では、残すという点では「文字」にも匹敵する「土版」の様にも私には思えるからです。

縄文時代の発掘出土品は、土器土偶も含めて何拾万点にも及ぶ物と思われます。
しかし、この石版は他には見当たらない珍しい物です。

此れから出土する可能性はありますが、非常に貴重な物です。
しかも最近と言って良い発見です。

数の概念が縄文人は持っていたと為れば・・・・・・・
土器や土偶の模様と思われていた「単なる穴」が、意外と意味を持っていた!
と、言う可能性も出て来る場合もあるかも知れませんよ!

この石版は、言葉を視覚に変えた可能性もあると私は考えて居るんですよ。
全ては私の個人的な推理ロマンに過ぎないので・・・・・・・
本気にしないでね!

参考意見とお含み下さいね。

みちさん

2013年09月17日 20:15

山下亭さん、

>「物物交換」時の事で、当然「数」の観念は持っていたのでは
  ないかという意味。。

了解しました。

山下亭さんも、「交易」と「物々交換」をきちんと区別していらっしゃいますね。 「縄文時代ガイドブック」の著者も、それぞれの定義を解説してあり、読んだばかりだったので、理解の助けになりました。

縄文時代は、『生産活動に従事しながら、余ったものを交換していた社会。 交換によって利益を売る集団が介在する「交易」という、経済活動はしていなかった』としていて、なるほどと、思いました。


>数の概念を「土板に刻む!」と言うこの発想が凄い事ですよね?

私は、正直に言うと、どこが凄いのか、よく分からないので、
解説お願いします。
石や、土で作った板しかなかったから、という理由とは違うのでしょうか?

山下亭さん

2013年09月17日 09:51

みちさん

私の交易と言う意味は他の部族との「物物交換」時の事で、当然「数」の観念は持っていたのではないかという意味で、「交易で手に入れた品物」と言う意味ではありませんよ。

数の概念を「土板に刻む!」と言うこの発想が凄い事ですよね?
縄文人の凄さが解りますよね!

みちさん

2013年09月15日 12:08

>私の推理ロマンは「交易」による物ではないかと推理しています。

「土版」が交易によって、他の地域から手に入れたもの、という
ことですか?  
そこまでは、思い至りませんでした。 なるほど〜。

他の地域から、同じものが出てくれば、また面白いですね。

>数の観念は占い的な意味合いも強く、
 これはシャーマンや呪術師と言われる人達の領域だと思います。

そうなのですね、知りませんでした。 
すると、数によって吉兆を占うのでしょうか?
なんだか、卑弥呼を思い出しました。

寺子屋風になると、シャーマンの専売にはなりませんよね。


さて、『縄文時代ガイドブック』(シリーズ 遺跡を学ぶ別冊)を読むと、

縄文時代は、互恵と平等主義に基づいた共同体(部族社会)に近かったとあります。

シャーマンや長老格の人間はいても、特定の個人、特定の出自や、グループが特権を握ってはいなかったとあります。

それは、腰飾りをつけた男性や、20も腕輪をつけた女性が発掘されていても、その人たちは、共同墓地に葬られており、傑出した墓を作っていないことや、ストーンサークルは、共同体の記念物として作られていた、ということから、そう考えられる、との記述で、なるほど、と思いました。

山下亭さん

2013年09月15日 09:15

数の観念が生まれるのは、建設作業(数の観念が無いと作れないと思う)も、あるとは思われますが・・・・・・私の推理ロマンは「交易」による物ではないかと推理しています。
古くは物物交換まで遡ると思われますが・・・・・・

縄文人は現代人が想像する以上に高度な文明を有していたと思いますよ!
現代人とは価値観が違うので比較は難しいとは思うのですが、思考と言う点では現代人にも劣る事は無かったと私は想像しています。

寺子屋的な学校は無かったでしょうね。
数の観念は占い的な意味合いも強く、これはシャーマンや呪術師と言われる人達の領域だと思います。

夜空の月の満ち欠けで、時間の経過と数の観念は縄文人は当然知っていたと思いますが、知って居たのは専門家(シャーマン的な人)だけだったと思います。
「縄文尺」の観念が何時の頃生まれたのかは調べていませんが、縄文人は数の観念はかなり以前から知っていた様な気が致します。

集落の細分化は、技術の伝承の拡散的な意味合いもあったと思います。当然、新たな技術との融合や発展も在った物と思います。

だらだら、私の古代推理ロマンを書いてしまいましたが・・・・・・・
総合的には「みちさん」と推理的には同じだという事です。

東京地方は台風の影響で、時折激しい豪雨とも言う様な雨が降っています。
本日、出雲の国の風土記に関するセミナーのある日です。
根性で行って来たいと思っています。

みちさん

2013年09月14日 22:27

番組で印象深かったのは、あの『大湯環状列石』から発見されたという、数を表したと言われる「土版」です。 

1.大湯環状列石は、4000年前。 
  巨大集落が散り散りになって、集落とは別の場所に、
  ストーンサークルを作り、墓もその下に作られるようになり、
  土版もそこから出土したようです。

2.4000年前は、BC.2000年頃です。
  アイスマンの時代より、1000年以上新しい。
  エジプトは、中王国時代。 
  インドは、インダス文明で、浴場とか、下水道も完備の生活様
  式。

テレビでは、「縄文人が、数の概念を持っていた」と言っていましたが、その頃、エジプトでは、象形文字、インドではインダス文字が
あったのですから、縄文人も、数くらい把握していたと思うのですが
どうでしょうか。 

大湯遺跡より500〜1000年前の巨大集落の頃には、各縄文集落では、他の遠方の地域と、翡翠や黒曜石などの物々交換をしたりもしていました。 ですから数を知っていて、当たり前と思うのです。 

「黒曜石何個につき、どんぐりを壷に何杯分」とか、
お葬式には、全ての集落の人々が協力して石を運んだでしょうから、「あと何個必要だ」など、数に関係のある会話は、盛んに行われて
 いたのではないでしょうか。 

また、集落が散り散りになっていたら、伝達事項も多いでしょうし、
ストーンサークルに集まる日や、夏至の日を各集落に連絡するには、
数は必要でしょう。 
もしかしたら、ストーンサークルには、青空学校があって、数を記した土版で、子どもたちに数をおしえていたかも知れません。

その頃は、月の満ち欠けによって、時の推移を勘定していたと思うので、15か16までのカレンダーが各集落につるしてあったかも知れません。


縄文時代入門書、もう1冊読んでます。 ちょっと古いけれど、
絵入りで、楽しいです。

◎ 縄文世界の一万年 (1999 集英社)

みちさん

2013年09月08日 20:38

ストーンサークルの番組を通して、石文化に興味が増しました。

ストーンサークルの建造目的や用途、それに、発達の仕方などは、
番組や、山下亭さんの推理で納得です。

しかし、縄文遺跡のことを、基本的にはよく知らないことに気づき、
現在、図書館から、入門者向けの最新版の本を借りて読んでいます。

『縄文時代ガイドブック』  新泉社

テレビ番組では、最小限の解説で、曖昧な部分が分かりました。 
それによると、

? 2、3世代から成る親族集落がいくつか集まって、
  村落を作っていた。
? その村落の拠点となる集落は、環状集落という、
  集落形態をとっていた。
? 環状集落は、中央の広場を囲むように、集落が配置されていた。
? 広場には、埋葬、貯蔵、調理、祭祀の施設が設けられていた。

? 環状集落が、解体され、集落が小型、分散化してからは、大型の
  環状列石が作られるようになり、中央広場と同じ役割を果たす
  ようになった。

これを見ると、山下亭さんの推理、ストーンサークル原型説とぴったりですね。さすが。。

次は、「土版」について書きますね。

山下亭さん

2013年09月07日 18:22

六甲山みかげ石さん

行政、解っている様な言葉ですが、辞書で調べてみました。
辞書を見てもらうと解りますが・・・・・

案外、揺るいお上の仕事の様ですよ。
結論を言うと担当の係官の裁断一つでどうにでも転ぶ法律のようですよ!

古代遺跡に理解のない役人が多い為に、杓子定規な御裁きに為っているようですね?
非常に残念な事ですね。

六甲山みかげ石さん

2013年09月07日 11:50

そうですよね〜、一般的には
しかし、行政には

「神聖な地」は、ないようです。(悲

山下亭さん

2013年09月07日 11:10

六甲山みかげ石さん

ストーンサークルの様な物は、宗教や信仰、あるいは公共設備的な意味合いが在ると思います。
邪魔だからというような物ではない様な気が致します。

私の推測では異民族の移住や、生活習慣や文化の違う人達の侵攻等が考えられます。
「神聖な地」が無くなる原因は其れぐらいしか思い付きません。

山麓にストーンサークルと言うパターンは英国ではよく見る風景ですよ。

六甲山みかげ石さん

2013年09月06日 09:29

ご存知のように、六甲山を探索しています。
不思議と新たなイワクラに出会っています。

しかし、なくなったモノの情報にも出会います

山麓にストーンサークルがあったという話しに出会いました
神戸のあの「山、海へ行く」で、無くなった。とわかりました。

邪魔者という判断だったのでしょうね〜。