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よくあるご質問

官兵衛如水公と立花城の立花宗茂公

※ 画像は立花山(福岡市東区)中に点在して遺る立花城石垣跡

天正十五年(1587)年三月一日、豊臣秀吉は大阪を発ち、島津征討のために九州へと下ります。

その前年にあたる天正十四年(1586)七月には、黒田官兵衛如水公が秀吉本軍出陣に先立ち、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景の三将が率いる軍勢の軍監として九州へと進発します。

秀吉には、早い時期から島津氏征討の目論みがありましたが、早々に、軍監如水公の下、兵を挙げることになった直接の原因は、五万の勢をたのむ島津軍が筑前へと侵入。豊後大友氏の勢力下にある、筑紫野の宝満城、岩屋城、そして糟屋郡・現福岡市東区の立花城への侵攻を始めたことによるものでした。

岩屋城は、援兵が間に合わず、城将の高橋紹運公以下763名が壮烈な討ち死を果たします。天正十四年(1586)七月二十七日のことです。次いで宝満城は紹運公の次子直次・後の統増公が島津軍の策謀に欺かれ開城。

一方、立花城では、後の柳河藩主となる立花宗茂公が孤塁を守りぬいた末、秀吉軍の九州上陸を聞き撤退をはじめた島津軍を追撃。八月二十五日には糟屋郡篠栗の高鳥居城を陥した上、その勢いを駆って、宝満城、岩屋城を奪還します。

実は、立花宗茂公も紹運公の子であり長子です。九州戦国史における白眉ともいえる、宝満、岩屋、立花三城の守城、そして追撃戦の物語は、高橋父子・兄弟によって演じられたのです。

如水公は、島津征討、そして九州平定における拠点として立花城を守り固めるよう秀吉から下命を受けていました。立花城への兵糧・弾薬などの補充を行ったという事実もあり、こうした如水公の配慮も、立花宗茂公の篭城を支えたものと思われます。

また、立花宗茂公は立花城守城戦の働きについて秀吉から「九州に一物あり」との激賞の文言を含む感状を下賜されます。貝原益軒の「筑前國續風土記」によるとこの感状はしばらく福岡藩の所有になっていたようですが、二代藩主光之公の時に柳河藩主となった立花家へ返納されたと述べられています。

天正十四年(1586)九月。如水公は、立花城に立花宗茂公を訪問。立花城篭城と高鳥居城攻城、宝満城、岩屋城奪還について、その労をねぎらっています。

同十二月。立花家臣の城戸清種が記した「豊前覚書」によると、香春岳城(現福岡県田川市香春)攻城中の如水公を立花宗茂公が見舞ったということです。

立花山上の立花城を発ち、犬鳴峠を越えたものか。往路復路はともに降りしきる雪に悩まされたと記されています。

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