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兄媛神の谷・奴山/新原・奴山古墳群と奴山の谷

兄媛神の谷 奴山

※画像は新原・奴山古墳群と広がる水田

福岡県福津市の奴山は、なだらかな里山に囲まれ、奥には宗像大社の摂社・縫殿神社を鎮守
として置く静かな集落です。

集落の前面には、世界遺産国内暫定登録の「宗像沖ノ島関連遺産群」中の指定史跡である新原・奴山古墳の50基近い群集墳をのせる丘陵が、まぶしく間近に海を見せながら延びています。丘陵と集落を囲う里山のあいだには、流れる奴山川を半ばにして、ゆるやかな傾斜を成して広がる水田が、豊饒を予感させる緑色を光らせています。

鎮守の縫殿神社の主祭神は、日本書紀に応神天皇の四十一年(373)春ニ月のこととして、織女、縫女を求めて、呉国へと使いしていた阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)の親子が兄媛、弟媛、呉媛、穴織ら四人を伴い帰朝し、筑紫に着いた。兄媛については、宗像社の三女神による強い請いがあり、その地に留まったとある四神です。

宗像三女神の請いにより、留まった兄媛については「筑紫国御使君之祖」となったとも日本書記はふれます。

「筑紫国御使君」とは、他の文献に出て来ることがない、謎の職掌名なのですが、兄媛神を招いた阿知使主、都加使主の流れをくむ筑紫での祖といった意味合いをいうではないかと思われます。列島へと渡り来ることになった所縁の阿知使主、都加使主の流れをくむ氏族としての、筑紫における祖という解釈でよいのだろうと思います。

阿知使主、都加使主は織り、縫いに関わる、伝承を多く持つ秦系渡来人の氏族ですが、宗像三女神もまた、縫いとの所縁が色濃い神と考えられます。

兄媛神渡来伝承の他に、織幡による軍旗に宿る神威によって宗像三女神が賊を平らげるといった伝説
や、田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の宗像三女神のうち、田心姫神(たごりひめのかみ)ご鎮座の沖津宮には金銅高機雛形という織り機のミニチュアが伝来し国宝に指定されています。

この黄金の織り機は江戸時代の始めに藩主の黒田長政公が、沖津宮にあったものを、島のものは、一木一草たりとも持ち出すことが許されなという禁を、ポルトガル人の手を借り、犯して藩邸へと持ち出したところ、収めた櫃のなかで鳴動したという話が伝わっています。

湍津姫神(たぎつひめのかみ)ご鎮座の宗像大島の中津宮で毎夏行われる七夕祭は、古い起源を持つものですが、「棚機」とも表す、この祭りの原初的な形は、降臨してくる神にむけて、織衣を棚に安置したものであり、やはり織りとの深い関わりがあるものです。

何よりも、三女神の親神である須佐之男命が高天原で暴れ回ったあげく、皮を剥いだ馬を、潔斎した織女たちが機を勤める忌機屋(いみのはたや)に投げ込むという神話が伝わっています。暴虐を伝える話とはいえ、織りとの繋がりを暗示するものです。

こうした、いくつかの例から推測されることは、108社あるとされる宗像大社の摂社のなかでも、織り、縫いをもたらした兄媛神を主祭神とする織殿神社は、宗像三女神の祭祀を特に重要な位置で支えてきたのであろうということです。

伝来品として、永享12年(1440)鋳造の梵鐘や、南北朝のものと思われる大般若経六百巻があるのですが、こうした貴重な品々が伝わることは、宗像三神に寄り添う神としての、かっての威勢を示すものといえます。また、その社領も、古くは広大であった、ともいいます。

新原・奴山古墳群の最古の墳丘に眠るのは兄媛に違いない、との想像は十分に許されますし、海にむけて、広がりをみせる奴山の谷を拠点に、代々、織り・縫いに勤め、業を伝えてきた兄媛の末裔達が、取り囲む塚に葬られているのに違いないという推測も、また、許容の範囲だろうと思います。

現代では、谷の半ばを分けて走る県道から奴山の集落へと上っていくのですが、古くは奴山口という旧道から、はるばると入っていたのでした。

奴山口は、その昔、現在の津屋崎漁港から深く湾入し、水面を形成した入り江の水際でした。

その奴山口から奴山の谷を望むと、ようやく実をつけるかとみえる稲穂の濃い緑をおして、降りてきた風が体をつつんでは過ぎていきます。

風も、野の輝きも、空行く雲も浜を打つ波も、兄媛の時代と変わらない。そんなことを静かに思わせてくれる兄媛神の谷、奴山なのです。

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