別府歴史講座 史料による別府の歴史(第十回)

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別府歴史講座 史料による別府の歴史(第十回)
開催日時:

開催場所:大分県別府市野口原 大分県ニューライフプラザ 地図を見る

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コミュニティ 古文書硏究会
主催者
カテゴリ その他(セミナー・交流)
タグ
  • 古事記
  • 別府の歴史
  • 別府市誌
料金
  • 500円
料金用途 資料代
参加人数 1名
募集人数 30名 受付終了
最小催行人数 2名
対象
開催日時
開催場所 大分県別府市野口原 大分県ニューライフプラザ 地図を見る
募集期間
イベント内容 別府歴史講座 別府市男女共同参画センター
    別府市野口原 大分県ニューライフプラザ


  史料による別府の歴史(第十回)
前二〇〇〇年頃 朝日の直(ただ)刺(さ)す大地

〔梗概〕前二〇〇〇頃、列島の人々は、朝日に注目するようになっていた。

【史料1】 和銅五年正月廿八日 太安萬侶・序『古事記』上巻(岩波・日本思想大系)

白日神(しらひノかミ)。

 「しらひ」は、明るい太陽の意。『旧事紀』地祇本紀にも白日神がみえる。

 縄文海退期には、海水面は、海進最盛期より2~3mも下がった。遠浅の海底は干上がって広大な陸地と化していった。海退の時代に入ってから、北上する暖流の勢力も衰え、列島の気候は、寒冷化とともに、降水量が増加する湿潤化があらわれた。列島の人々は、暖かい日差しを求めて、東南向きの扇状地に定着するようになった。

 一般に、前2400年から縄文時代後期とされている。

【参考A】平成十五年七月 清水宗昭「原始」『別府市誌』第1巻 別府市
 別府市域の主要部である石垣原扇状地には、丘陵部を除いて縄文時代後期までの遺跡は見られなかった。それは、扇状地という地形的に不安定なためであったとみられるが、縄文後期以降、地形の安定化に伴い人々の定着の形跡が認められるようになる。その中心となるのは、実相寺山の東麓部一帯の春木遺跡、末行遺跡、四郎丸遺跡等の遺跡群である。その一つの春木遺跡からは「西平式」と呼ばれる磨消縄文という独特の文様をもつ端正な土器が出土している。

前2000年頃、黄河中流域に、中原王朝が出現した(二里頭文化)。伝説で禹の作という「海内東経」『山海経』に、「海内、東北隅より以南のもの 強大なる燕は東北隅にあり。(中略)淮水は餘山より流れて、―餘山は朝陽の東、義郷の西―海に入る、淮浦の北」とあり、中原(中夏)の人々が、東方の地理に興味を抱いていたことを示している。

イベントレポート

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〔講題〕朝日の直刺す大地

 前二○○○年頃、列島の人々は、朝日に注目するようになっていた。

【史料1】和銅五年正月廿八日 太安萬侶・序『古事記』上巻(岩波日本思想大系)
白日神(しらひノかミ)。

 「しらひ」は、明るい太陽の意。『旧事紀』地神本紀にも白日神がみえる。

 縄文海退期には、海水面は、海進最盛期より2~3メートルも下がった。遠浅の海底は干上がって広大な陸地と化していった。海退の時代に入ってから、北上する暖流の勢力も衰え、列島の気候は、寒冷化とともに、降水量が増加する湿潤化があらわれた。列島の人々は、暖かい日差しを求めて、東南に向かう扇状地に定着するようになった。

 一般に、前2400年から縄文時代後期とされている。

【参考A】平成十五年七月 清水宗昭「原始」『別府市誌』第1巻 別府市
 別府市域の主要部である石垣原扇状地には、丘陵部を除いて縄文時代後期までの遺跡は見られなかった。それは、扇状地という地形的に不安定なためであったとみられるが、縄文後期以降、地形の安定化に伴い人々の定着の形跡が認められるようになる。その中心となるのは、実相寺(じっそうじ)山の東麓部一帯の春木(はるき)遺跡、末行(すえき)遺跡、四郎丸(しろうまる)遺跡等の遺跡群である。その一つの春木遺跡からは「西平式」と呼ばれる磨消(すりけし)縄文という独特の文様をもつ端正な土器が出土している。

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こんばんは・・・
大変な努力をされていますね。