別府歴史講座 史料による別府の歴史(第十回)のイベントレポート

別府歴史講座 史料による別府の歴史(第十回)

〔講題〕朝日の直刺す大地

 前二○○○年頃、列島の人々は、朝日に注目するようになっていた。

【史料1】和銅五年正月廿八日 太安萬侶・序『古事記』上巻(岩波日本思想大系)
白日神(しらひノかミ)。

 「しらひ」は、明るい太陽の意。『旧事紀』地神本紀にも白日神がみえる。

 縄文海退期には、海水面は、海進最盛期より2~3メートルも下がった。遠浅の海底は干上がって広大な陸地と化していった。海退の時代に入ってから、北上する暖流の勢力も衰え、列島の気候は、寒冷化とともに、降水量が増加する湿潤化があらわれた。列島の人々は、暖かい日差しを求めて、東南に向かう扇状地に定着するようになった。

 一般に、前2400年から縄文時代後期とされている。

【参考A】平成十五年七月 清水宗昭「原始」『別府市誌』第1巻 別府市
 別府市域の主要部である石垣原扇状地には、丘陵部を除いて縄文時代後期までの遺跡は見られなかった。それは、扇状地という地形的に不安定なためであったとみられるが、縄文後期以降、地形の安定化に伴い人々の定着の形跡が認められるようになる。その中心となるのは、実相寺(じっそうじ)山の東麓部一帯の春木(はるき)遺跡、末行(すえき)遺跡、四郎丸(しろうまる)遺跡等の遺跡群である。その一つの春木遺跡からは「西平式」と呼ばれる磨消(すりけし)縄文という独特の文様をもつ端正な土器が出土している。