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よくあるご質問

語り得ぬもの・・ ビールの味。。

ヴィトゲンシュタインさん彼の
「論理哲学論考」ってのは
フレーゲさんのプロジェクト
・・・・ 数学を論理学で基礎づけるって
じつにおどろくべきプロジェクト
それがラッセルさんの指摘からあっさり
・・・・ 破綻のしちゃい
そのことが一つの要因なっちゃい
ヴィトゲンシュタインさん言説
〝語りえぬものについては
沈黙しなければならない”
これが生まれたのかもしれないね

フレーゲさんってひとは、すごいひと。
その凄い人の集大成それが破綻して
彼自身淡々と書いてんだけど胸が痛む

そのパラドックスそれは集合の集合って概念
〝語りえぬものについては
沈黙しなければならない”
その解消のひとつが彼の提示。

ヴィトゲンシュタインさんで
メメからうろこバラバラ落ちたんは
論理ってのは結局トートロジーであり
「なにも真理を開拓するものではない」
そうゆう指摘それまで俺ったら論理これは
あらた地平を拓くものだ信じてたから。。

でも実際にゃ論理は何ごとも語りゃしない。
そのトートロジー全体こそが世界だ。
・・・・ ってのが彼の主張。
早い話が論理にゃ限界がありそれ以上
「踏み出ちゃいけないょ」ってことだった

「語りえぬものについては」
「沈黙しなければならない」
・・・・ 一般的にゃ神秘的な言葉のよう
思われてんだけど何てことありゃしない
思考の限界を示し、それを超えるものは
思考じゃ取り扱えやしないってこと。
・・・・ たったこれだけのことだった

きわめて当たり前のことなんだけど
思考は思考自身を超えようするもんで
直感的理解出来難いってだけの話。だもんで
なんら難解なものでも神秘的なものでも
・・・・ なかったみたい ^^;

氏の言う「語りえぬもの」? 多くの人
美や神いったもの、それ挙げるか思うけど
要は『言語を超えたもの』それ指してる。
・・・・ そう考えるんが妥当だよね

    これよくまとまってるね
    ↓     ↓    ↓
http://fu-rai-bo.blogspot.com/2013/06/blog-post_22.html
野矢茂樹さん著 
「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」 
哲学 問題の全ては解決されたのか
・・・・ って、本。

しかし俺の『語り得ぬもの』それは

・・・・ 麦酒の味とか。。


以下『論理哲学論考』序文の抜粋

 ・・・・・・・・・・・・・・

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』
序文に於いて次のように記している。
問題はその本質において最終的に解決された。
ここで「問題」と言っているのは
哲学問題の全てのことを指しており
哲学問題の全てが解決されたと
ウィトゲンシュタインは主張しているのである。

ではどうすれば哲学問題の全てが解決されたと
主張できるのであろうか。それは
次のような論理の流れになる。
「われわれはどれだけのことを考えられるか」
という問いに対して、答えることができ、更に、
その答えの中で哲学の全問題は
思考不可能であることが明らかになったら
哲学問題は解決(解消)
されたことになるというのである。

思考不可能なことは考えることはできない。しかし
「これは思考不可能だ」と言うことはできる。
だがこれはナンセンスな文章である。
言語の上では有意味と無意味(ナンセンス)
という言語の境界を引く事ができるというのである。
どれほどのことを考えることが出来るかという
思考の限界と、どれほどのことを語りうるかという
言語の限界とが一致すると
ウィトゲンシュタインは主張する。こうして
思考可能性の限界を
画定しようとする試みがなされるのである。

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の序文で
自ら次のように記している。

本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、
思考に対してではなく、
思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。
というのも、思考に限界を引くにはわれわれは
その限界の両側を思考できねばならない
それゆえ思考不可能なことを
思考できるのでなければならないからである。
したがって限界は言語においてのみ引かれうる。
そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。

 ・・・・・・・・・・・・・・
    上記抜粋終了

まあ、当たり前の話なんだろうけど
よくまとまったで本だ思うけども
全体的理屈っぽくて俺にゃイマイチ理解が^^;

部分は全体語りえるのか?しかし
これは全体たる神を語るのと同じ
語っちまえばクレタ人のパラドクス
結果それと同様パラドクス
生み出すことなっちゃうわけで
この言葉「部分は全体について沈黙せよ」
若いころ、そう命令されてるとしきゃ
まったくもって思えなかった。
でも今ころは このパラドックス
ひとが全体と部分ってこと語る時
そのひとは「全体と部分」から
飛び出しちゃってる。そのよう理解

神だとか仏とか絶対者とか、んなもん
持ち出すまでもなく ひとは全体を知りえない
全体知りえなけりゃ部分も当然知りえやしない

逆ないい方すりゃ部分は全体。全体は部分
まあじつに『単純である』・・ そこに話も帰結

「あなたは世界です」・・ ルソーさん辺り
おそらくこの洞察持ってたんじゃねえんかと

あんまし彼のこた調べちゃないけど直観的
・・・・ そう感じるかな。。

でも彼の洞察結局が全体主義ナチズム
そっち向かっってった言うひと居るけれど
おそらくそうなんだろね。その意味じゃ
部分と全体・・一粒の粟は全宇宙を含むとか
禅とかウィリアムブレークとかあるけれど
・・・・それこそが真理。
ライプニッツさんのモナドはどうなのか
イマイチ理解出来ちゃないけれど
ただまあ 彼は天才だから
・・・・ そうゆうことなんだろね。。

我々思うよりか はるかに世界
・・・・ 単純出来てんだろなあ。。

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