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よくあるご質問

「邪馬壱国への道標」、、古田武彦の本

著者は大正生まれで昭和45年まで高校教師をしていた歴史研究家です。
他に「邪馬台国はなかった」「失われた九州王朝」「邪馬台国の論理」「親鸞」などがあります。

日本古代史最大の謎と呼ばれる邪馬台国と女王卑弥呼、、、九州だ奈良だと世間では好き勝手な事を自由に論じている、それも数百年も昔から論争されていますが、未だに謎のまま。
ある人は自分の住んでいる地域に邪馬台国がある事を誇りとしたいがために無理にこじつけて色々アリバイ捜しに翻弄し、ある人は魏志倭人伝を引き合いに勝手に解釈し、ある人は学会や権威ある人の学説を信じて頑なに主張する、、、、何とも醜い論理だとつくずく呆れてしまいます。

しかし、古田氏の本を呼んでいると、不思議と「原点に帰れ」と叫んでいるかのようです。

邪馬台国や卑弥呼、倭、倭人、などなどが出てくるあらゆる文献を公平に見比べ、詳細に調べ直して忠実に客観的に古代の文献に基づいて実証していく、、、、これぞまさしく歴史学の原点だと感じました。
漢書や後漢書、正史三国志は勿論、隋書や宋書、旧唐書、新唐書などなど、倭と関連する部分は一字一句厳密に原点を忠実に評価しよう、と言う姿勢が素晴らしい、と感じました。
ともすると、「書き間違えだ」とか「勘違いだ」とか「距離の計算が云々」と、読む人の都合のいい勝手な解釈で物語りを勝手に作って展開・論証しようとしてしまいがちですが、、、、かれは違う、、、と感じました。
地道にコツコツ、原点の文書を最大限尊重し総合的視野で邪馬台国や倭人・倭の存在を明らかにしようと言う姿勢に感銘をうけました。
是非呼んで頂きたい一冊でした。
「邪馬一国への道標」角川文庫
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/mokuzi12.html

コメント

どらえもんさん

2013年08月18日 09:22

続;
一里は76m(短里)、、、、、これに対して通常日本では1里=約4kmとしていますが、現代中国では360歩(1800尺)=540mとなっているそうで、直すと1尺は30cmとなります。
しかし、中国の場合時代よって1尺が23cmの時や27cm、30cmなど様々です。
そして短里と呼ばれる尺度もあり、その尺度を使っていた記録があると古田氏は述べています。

そこで古田氏は魏志倭人伝の1里を76mとすれば帯方郡から句邪韓国まで7000里=532kmとなり実態とほぼ合う、と言うものです。
しかし、肝心の帯方郡がどこにあったかはまだはっきりしない、楽浪郡が今の平壌らしいがその南40km付近だと言う説もあり確定ではない。

また朝鮮半島は、元来「古朝鮮人」が支配していたと韓国の人々は言うが、「箕子朝鮮」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E5%AD%90%E6%9C%9D%E9%AE%AE
に関しては色々賛否両論が渦巻いているので何とも言えない。

さて、衛満によって建国された「衛氏朝鮮」が前漢の武帝によってBC108年に滅ぼされ4郡が設置された(「楽浪(らくろう)郡」「真番(しんばん)郡」「臨屯(りんとん)郡」「玄菟(げんと)郡」)。しかし数十年で残ったのは「楽浪郡」だけとなった。これは前漢の衰退や半島の朝鮮民族の叛乱などで管理統治が出来なくなった事が大きな理由のようです。
後漢にはいってからも漢王室の権威は衰退傾向にあり、ついに三国志時代には滅び、魏(曹操)が権力を握ります。そして半島は魏の将軍公孫氏が統治していました。この時帯方郡を創設したのが公孫氏だと言われています。この時期が倭の邪馬台国・卑弥呼が活躍した時代でもあります。
そして公孫氏を通じて魏に貢献(朝貢)していたのでしょう。
楽浪郡や帯方郡は前漢から後漢の約400年間中国支配下にあり漢の文化をそのまま導入・吸収した地域でした。
鉄器や青銅器文化、稲作灌漑技術、文字や儒教、文化なども大いに浸透した事でしょう。

その帯方郡と盛んに交易したのが邪馬台国です。
邪馬台国の時代に鉄器や青銅器、漢字文字、儒教などが入ってきた事が想像できます。
伽耶地域(洛東江近辺)では良質の砂鉄が採れ、鉄延が盛んに生産され、倭人が買いに来た、と言う記録が残っています。

邪馬台国の卑弥呼が君臨していた頃はある程度邪馬台国連合が漢や魏の後ろ盾も作用して安定していたものの、後漢が滅び、三国志時代、五胡十六国・魏晋南北朝時代の混迷期に入ったり、卑弥呼の死後は殺伐とした戦乱の時代に突入します。
それは鉄器(鉄の武器)や造船技術、騎馬など戦闘武具が更に普及していった背景と、人口の増加と稲作灌漑技術の進歩があったと想像できます。

邪馬台国の戸数は70000戸あったと記されています、凡そ20万〜35万人の人口があったと想像できます。
それ以上の人口になれば、一夫多妻制も、呪術的な宗教・シャーマニズムや占いではとても統治出来なくなったろうし、後ろ盾となる権威(中国のお墨付き等)も無くなり、時代は力ある者、財力と武力のある者が生き残る下剋上の時代に突入したと思います。空白の4世紀だったろうと思います。
あの巨大な漢帝国が滅びた事を知った半島や列島の人々はどう思った事でしょう。
あの強大な権力を手にした曹操の魏(後の晋)が異民族の侵入で簡単に滅びてしまった光景を知ってどう思った事でしょう、、、、。
周辺近隣の諸国・民族は競って「我も我も、、、」と王を名乗って王国を建国しようとしたはずです。
それが当時の、高句麗であり、新韓(新羅)、弁韓(金官加耶)、馬韓(百済)、倭、、、だったと思います。
高句麗は漢と常に対峙し争っていましたが、満州を治め、広開土王の頃(AD400年頃)に半島の南端まで勢力を広げました。倭も半島を支配しようと試みましたが、百済や新羅の抵抗があり、高句麗の南下支配で実現できませんでした。
そん間に、倭の実権を握りつつあったのが近畿地方の大和・河内王権だったろうと思います。
筑紫(九州)は新羅のシンパの勢力が握っていたものの、大和王権に滅ぼされたのではと思います。伽耶も新羅によって滅ぼされました。
やがて百済と手を結んだのが倭でしたが、百済も滅びました。
多くの百済難民が列島に渡来・移住してきました。
そして高句麗も唐によって滅ぼされ、半島は新羅(高麗)で統一されました。