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よくあるご質問

魏志倭人伝の国々

【 魏志倭人伝の序文 】

 陳寿は倭人伝の編纂にあたって、序文にその主目的を書いている。

その主目的とは「四夷の変に備えん」であり、四夷の反乱、侵略から中国を
守るためであると明記している。

当時は北狄の脅威が存在していた。 従って陳寿は、まず北の「烏桓、鮮卑」
から記している。 西・南の防衛は比較的安全であったので、記されていない。
東夷については、倭や粛慎のように三国時代になって知られた国もあった。
遼東郡の公孫氏を倒し、通行が出来てから国の事情にも通じることになった。

それで「東夷伝」を書くことにした。
「故に、其の国を選次し、其の同異を列し、以って前史の未だ備えざる所に
  接せしむ。」

 この「備え」という文字が使用されており、「東夷伝」が「北狄伝」と同じ様に、
「防衛白書」が主目的として記されたのは明白である。


参考資料
 
 「邪馬台国解読」  生野真好著
 「倭国」  岡田英広著
 「邪馬台国はここだ」 奥野正男著
 「弥生の王国」    鳥越憲三郎著
 「女王の都とする所」  上野武著
 「邪馬台国」  松本清張著

コメント

ちにたさん

2013年10月16日 09:40

↑…(⌒杰⌒)…
ありがとうございます。
…(⌒杰⌒)…

トーセイさん

2013年10月14日 17:50

ちにたさん
>その国々の比定地、どこがどこなんでしょうか。

それは、もう難しいでしょう。
当時の倭人の発音を音写したものでしょうからね。
「其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王」
狗奴國の熊本は可能性が高いと思われます。
「久久地」(ククチ)の「くく」は菊の文字を古代は使ってます。「菊池彦」

北九州市、佐賀、長崎、大分市の中にあるのでしょうが・・・
古代の国名の発音が定かでないので、比較しようがありません。

添付写真は、倭名抄の九州北部の国名と郡名です。
yahooブログ「はぎのお会」魏志倭人伝の世界にupしておきます。

ちにたさん

2013年10月14日 14:07

「現在のところ、倭奴国は奴国二万を本体とした連合国であって、倭乱により分解した。
その仲間達が「〇奴国」と記載されている国々だと思ってます。」
その国々の比定地、どこがどこなんでしょうか。

トーセイさん

2013年10月05日 11:13

「易姓革命」

天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が
見切りをつけた時に革命が起きるとされた。 魏(曹氏)から晋(司馬氏)のように、
前王朝が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が易わる)というの
が基本的な考え方である。

したがって新王朝の場合は史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを主張する
一方で、前王朝と末代皇帝の不徳が強調される。

西域は曹氏の実績であり、東夷は司馬氏の実績である。そのため晋書には、西域伝がなく
東夷伝が誇張されている。

五行思想面からの説明では、万物には木火土金水の徳があり、王朝もこの中のどれかの
徳を持っているとされた。たとえば、漢の末期を揺るがした184年の黄巾の乱は、漢朝は
火の徳を持っているとされ、漢朝に代わる王朝は土の徳を持っているはずだとされた。

しかし倭国では易姓革命は、結局臣が君を倒すことで建国以来万世一系の日本こそ中華で
あると考えた。

そして日本書紀が書かれた。

トーセイさん

2013年10月04日 22:02

「公孫淵討伐とクーデター」

魏の明帝は公氏と呉孫権の結び付きに不安を覚え、237年毋丘倹に進軍させたが
大雨で失敗した。 公孫淵はこれをきっかけに「燕王」を自称し独立宣言をした。 
そして韓、倭は、公孫淵の治める所となった。

明帝は、必勝を期して西安から司馬 懿を呼び寄せ、多数の海船を建造して公孫淵の
討伐に成功する。明帝が死に斉王曹芳が新皇帝になると、「司馬 懿」と「曹爽」の
二人が後見人となった。

曹爽は、司馬 懿に栄誉を与え棚上げ策をする。皇帝の最高顧問(大博)に祭り上げ、
帯方郡の世話で訪中した倭の女王卑弥呼の使節団を優遇して、父曹真の「親魏大月氏」
と同様の称号「親魏倭王」を贈って、司馬 懿の面子を立てた。

司馬 懿は、これに対し皇帝が曹爽と一緒に洛陽城を出るとクーデターを発動し、
曹爽派を親類縁者に至るまで処刑した。

この249年のクーデターで司馬 懿が魏朝の全権を手中にし、長男「司馬師」
次男「司馬昭」と続き、昭の長男「司馬炎」に至って、265年魏の元帝を退位
させ、自ら皇帝となって「晋朝」開いた。

 これが晋の「武帝」である。


司馬 懿のクーデターは、事実上の晋朝の建国でもあった。
この司馬 懿の実績こそ、魏志倭人伝の主文なのである。

トーセイさん

2013年10月04日 21:57

「三国時代の始まり」

184年「蒼天はすでに死せり。黄天は将に立つべし・・」内地の州郡を挙げ
ての反乱が起こった。「黄巾の乱」である。しかし装備も訓練なく政府軍に鎮
圧されてしまう。だが鎮圧した将軍達が実権争いをし、後漢は消滅した。

宦官の養子の息子の「曹操」が後漢の主君を立て、河南省に根拠地を置き、
南京の孫権、四川省の成都の劉備と対抗して、いよいよ「魏、呉、蜀」の
三国時代へと入って行く。

同じ頃倭国でも黄巾の乱の影響で混乱が起きていた。「その国もとまた
男子を王となしたが、住すること七八十年、倭国乱れた」 男王とは、
107年の帥升であり七八十年は、黄巾の乱に当たる。

韓半島では、公孫度が189年に遼東太守となり、その後公孫康が221年
に死に228年には公孫恭が継いだが、兄の公孫淵に奪われた。

220年曹操が死ぬと、曹丕は後漢の献帝を退位させ皇帝となり、国号を
「魏」と改め、洛陽に都を移した。 これが魏の文帝である。文帝の後明帝
の時代も曹真の働きは目覚しく、大月氏王波調を来訪させ「親魏大月氏」の
称号を贈っている。

曹真は死んだが強敵諸葛亮も死に、明帝はこの好機に東方問題を解決する
ことに決めるのである。

トーセイさん

2013年10月04日 21:53

「倭国王帥升の朝貢」

後漢書「安帝永初元年、倭國王帥升等、獻生口百六十人、願請見」とある。

「願請見」は倭国側から願った事になるが、現実は逆だろう。 
この時代は、中国の政変が韓半島に影響を与え、倭国にも大きく及んでいた。

では当時の中国の状況を見てみると、後漢の帝位は父子直系相続であった。
第四代和帝に子がなく陰家の皇后が政権を担ったが、呪詛の疑いで廃位れ、
美少女の?家のスイに取って代わられた。

三年後和帝が死に一人息子も死んで、民間の和帝の落とし種で生後百日の
赤ちゃんを立てたが、すぐに死ぬ。亡父の弟の息子を連れて来て立てた。
「安帝」であり十三歳であった。

何んとか形を整えたが、運悪く数年の大雨で食料不足となり、姜族が造反して、
西域を放棄してしまう。高句麗国からは辺境に侵入され強奪を許す羽目になった。 
また、周囲を自派で固めるが仲間割れを起こし分裂が生じた。

?皇后が女であり宦官が力を付けたため、排斥クーデターを起こすが失敗に終わり、
司空は自殺させられた。中国国内は散々たる状況であった。この苦境を打破するため
考え出されたのが、数少なくなった友好国の中で紫綬の国の「漢委奴国」に働きかけ、
友好使節団の大朝貢パレードを演出し、国内を何んとか纏め上げることが企画された
と思われる。

生口百六十人、帥升等とあり多くの酋長が参加した大表敬訪問となった。
何時の時代も人間の考えることは、同じである。特に中国皇帝は朝貢を求めた。
習近平が天皇謁見を強引に行なったのもよく分かる。これが倭国王と格上の記載
となっている理由であろう。

 
   帥升は漢委奴王統である。

トーセイさん

2013年09月30日 20:40

【韓半島の交易ルート】

この時代の韓半島南部は西側に馬韓、中央南に弁韓、東側に辰韓があった。
真蕃郡が置かれると、倭国への交易ルートも盛んになっていった。

釜山港から大邸ー大田ー天安ー水原からソウルまで。
ソウルから原州ー堤川ー安東ー永川ー慶州ー釜山までが主経済ルートであった。

従って、弁韓・辰韓はルート上にあり、馬韓よりも早く開けている。
また鉄も産し貨幣として使われ、二郡に供給している。
この釜山が狗邪韓國の中心地であったのだろう。

その点、馬韓はまだ未開地であり、そこからの渡来人は佐賀、長崎、有明沿岸に多く、
弁辰からは九州北部に多い。これが博多湾付近が栄えた理由でもある。

本来は、帯方郡から陸行が主要ルートと考えられるが、倭人伝には「從郡至倭、循海岸水行、歴;韓國」となっている。西海廻りは干満差が10mもあり、倭舟では無理である。
魏船の大きいので来たのであろう。 だが陸行節も根強くある。

自説では、この弁・辰国勢力が日本海から若狭湾へ入り、近江で栄えたと思っている。
運んで来たのは、もちろん阿曇族なのだろう。その代表が「和邇氏」で、奈良に入り
「中平年鉄刀」を埋葬したと考えている。

トーセイさん

2013年09月26日 18:15

ちにたさん

単純に「〇奴国」で脱字 (笑)

現在のところ、倭奴国は奴国二万を本体とした連合国であって、倭乱により分解した。
その仲間達が「〇奴国」と記載されている国々だと思ってます。

漢委奴国王統に代わり、卑弥呼勢力が倭王の座についた。
それに反対する勢力の代表が「狗奴國」と考えています。

狗奴國を熊本北部からとして、「次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國」
狗奴國のすぐ上を筑後川沿岸とすると、大川市「風浪宮」阿曇氏があります。
本山志賀島に負けず劣らずの古代から続く家柄です。
http://www.okawa-kk.com/spots/detail/23

奴国であった可能性は、大きいと考えています。
狗奴國=旧奴国説もありますね。
阿多の隼人と越の阿曇族が交わった場所とも想像してます。
隼人が阿曇族の配下になったと主張する専門家は、結構多いです。

ちにたさん

2013年09月26日 09:59

奴国も二つあるではないか。
…(⌒杰⌒)…そうなんです。でも、なぜだとお考えですか??…(⌒杰⌒)…

トーセイさん

2013年09月25日 12:36

【翰苑の邪馬台国】

翰苑からの抜粋

「魏略曰・・至對馬國・・至一支國・・至末廬國・・到伊都國 戸万餘・・
 其國王皆屬王女也」

「廣志曰。倭國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國、百女国以北、
  其戸數道里、可得略載」

魏志倭人伝がなければ、誰もが邪馬台国は「熊本」と考えるだろうね。
唐津から東南陸行で伊都国牛津。 その南に邪馬台国あり。本来なら山門
郡だが人口面で一歩譲る。

翰苑には、奴國、不彌國、投馬國はないし、官名もない。 唐津から真っ直ぐ南へ
行くことになる。

と、とっころが、倭人伝の伊都國、有千餘戸だとそうはいかなくなる。
奴國、不彌國、投馬國が加わり、水行十日、陸行一月も入って来る。

「東南、戸万餘の牛津伊都国」と「東北、有千餘戸の糸島伊都国」が同じだとする。 
っな、ことはないだろう。 別の国のはずだ。

この部分を問題視する史家がいないのは、不自然である。
奴国も二つあるではないか。

トーセイさん

2013年09月24日 14:24

【卑弥呼の都とする所】

卑弥呼時代の権力の象徴は、「漢鏡」と「鉄刀」である。特に「素環頭太刀」である。
これらの物が多く出土している事が重要である。出土してない場所は、対象外と考えても間違いではない。

奥野正男氏「鉄の古代史・弥生時代」より

素環頭太刀・刀子は日本全体で、52本出ている。 その内福岡県が33本と最も多い。 その福岡でも
田川・京都郡近辺で20本と六割を占めている。 福岡市内の9本や甘木市付近の3本よりもはるかに多い。

卑弥呼の時代は弥生時代終末期である。 この時期の出土を見てみると、

     日本全体で、20本
     田川・京都郡で、11本
     福岡市で、3本
     甘木市で、1本 の状況である。

福岡市は委奴国時代の繁栄が考えられ、卑弥呼・壹與の時代は田川・京都郡が過半数を占めている。 福岡市・田川・京都郡以外の地域の可能性はないと思われる。

トーセイさん

2013年09月23日 23:39

【近畿説は成り立たない 】

その理由は、当時の造船技術にある。

海に囲まれた日本列島は縄文時代以来、丸木舟と櫂で沿岸航行しながら遠方にまで黒曜石
や翡翠などの石材を求めて活動している。


弥生時代後期から古墳時代にかけては舟が大型化されて丸木舟の刳り抜き部を底にして
船縁にタナを取り付け大型化させた準構造船へと進化している。しかし不思議なことに
古墳時代まで大陸から様々な文化や文物がもたらされたにも拘わらず船の構造に大きな
変化はみられない。造船技術が発達しなかったのは何故だろうか。


古墳時代以降も丸太を繰り抜いてそれを主体部とするのが造船の基本で準構造船のままだった。
刳り抜き舟が日本で長く使用され続けた理由は、まず船体に継ぎ目がないため丈夫で長持ち
した。岩礁の多い海岸で舟底が浅瀬に当たっても継ぎ目がないので折れたり、穴が開く心配がなかった。

刳り抜き舟の寿命は4,50年あり一度作ると何代にも使用することができた。又、日本は森林資源が豊富で樹齢数百年の大木が比較的容易に入手できたことなどが挙げられている。国内では刳り抜き舟で十分だったのだろう。

準構造船や構造船への進化は外洋への航行が必要になったことを意味している。造船技術が日本で発達しなかったことはあまり日本側から朝鮮半島や中国大陸へむかうこと
が少なかった歴史的背景が描写されているのではないだろうか。

即ち造船技術も構造船も、半島南部から伝わって来たのであり、交易の殆どが中国、半島
南部から倭国へ来ていたということになるのだろう。

近畿から瀬戸内海を通って九州へ来るには、最低でも四十ヶ所以上の中継地が必要である。 
瀬戸内海は時間によって流れが逆流し、一日に進む距離は限られている。 数百名の兵が
一度に押し寄せてくるとは考えられない。

天孫降臨は船も含まれている。当時は西から東への流れの法が圧倒的に多かったと思われる。

トーセイさん

2013年09月23日 21:59

【奴国の勢力範囲 】

奴国特有の「広形銅矛」の分布は、日本海側では「出雲」まで瀬戸内海側は 「吉備」の手前まで
達している。 四国では、「愛媛」「高知南部」に出土し ている。 四国香川県は吉備の細形剣
である。

福岡春日市から南側は出土していない。 筑後川、有明海沿岸では、細形剣で あり、戦いを重視
していたと考えられる。 大宰府南部「筑紫野市」付近は 戦没者の遺骨が多く出て勢力の境目で
あったと思われる。。

唐津「桜馬場遺跡」から広形銅矛の鋳型が出ており、製造していたと思われる。すると、【唐津、
福岡市、出雲、周坊灘、四国西側】にまでが最大の勢力範囲と 考えることが出来る。この勢力は
後漢書「倭奴国」と表記された国であろ う思う。 黄巾の乱後の倭乱で主導権を失くし、本体で
ある春日市付近 だけが二万の人口の奴国として残っていたと考える。

其餘旁國の「□奴国」と表記されている国々は、倭奴国の配下にあって倭乱後も 強い繋がりがあ
ったのではないのだろうか。 新勢力「卑弥呼」に倭王の座を 奪われ、それに反対した狗奴國が
その代表的存在であったと考えるのである。

「対馬」からは大量の広形銅矛が墓から出土していて、奴国主権者達が移って 行ったか里帰りし
たかであろうが、中国との交易の要を押えたという事は 海上交通の専門家であったと思われる。


旧唐書「倭國者、古倭奴國也」
「白村江の戦い」まで、この倭奴国の中での出来事と考えるのである。

倭人伝の時代は吉備勢力が強靭であった為、奴国と近畿勢の直接の関係はなか った、襷交易だっ
たと判断する。 日本海の若狭湾から近江に移り住んだ阿曇 族関係者、弁辰渡来者が銅鐸を持ち
込んで、独自に発展したものだと思う。

トーセイさん

2013年09月07日 14:46

【対馬国と広形銅矛】

広形銅矛を大量に生産したのは、奴国(春日市)で鋳型が出土している。
約一世紀間であり、その分布は山陰・四国まで及んでいる。 其の中で多く出土
している場所は出雲であり、次に対馬である。

この巨大化した銅矛は武器ではなく祭器と見られている。 対馬の銅矛の出土は
総数142本であり、伝存した大部分は神社に処遇され、「御神体」としてる神社
もある。 「対州神社誌」には、「鉾之神・鉾大明神・矛大明神」と記載した祭祀
が各地に数多くある。

銅矛遺跡として「瀬戸原遺跡」の様に、鉾を山に向けて【X字形】に差し違えていた
例もあり何かの呪いを行っていたのは間違いない。

立地条件としては、?海からの出入りが見える小高い丘。?山から降りて来る通路
を抑える形の地点にある例が多い。

仁位では、山手に銅矛を御神体とした「獄乃神神社」があり、湾内には「黒島遺跡」
をはじめ銅矛遺跡や矛を神器とする「和多都美神社」があって、その総数は島内第一
を誇っている。

漢委奴国王(奴国)の勢力範囲は、現在の学会が考えているよりもっと広範囲に及ん
でいた可能性が大きいと思われる。

トーセイさん

2013年09月06日 20:05

あぶらばくさん 

船の遭難は記録にないだけで、相当数あったのでしょうね。
「吉凶を占う」役目の人々の繁栄は、根強いものがあったと思われます。
大和朝廷の主な氏族の中にも沢山いるでしょう。

トーセイさん

2013年09月05日 17:46

【 一大国 】

魏志倭人伝では、「一大国」となっているが、翰苑では「一支国」となっており、
その後の北史などでも「一支国」と修正されている。

一支とは、宗像大社の「市杵島姫」(いちきしま)神社、広島安芸の「厳島神社(いつくしま)と
同様に「斎く」(いつく)という語源を持っている。
韓半島への渡海に際し、無事を祈願する島(場所)であった。

壱岐 = 一支 = 伊吉 = 雪 も同じである。
 
   万葉集十五ー三六九六
「新羅へか 家にか帰る 壱岐の島  行かむたどきも 思ひかねつも 」

この歌は、六鯖が「雪連宅満」の死を悼んだ挽歌であり、雪連は、壱岐連とも表記される。
伊吉氏は、壱岐島で亀ト(きぼく)に通じていた。亀の甲を焼いて吉凶を占う卜部として乗船しました。当時、卜部は、安全な航海をする上で、欠くことのできない存在でした。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/11/post-f91e.html

一支は「ユッキ」と発音され、「ユキ」から「イキ」へと変化して「壱岐」という字に固定された
と思えるのである。

トーセイさん

2013年09月04日 18:52

あぶらばくさん

古代史家で邪馬台国以前を語れる人は、非常に稀です。
とても希少価値があると思います。

あぶらばくさんらしい考察を期待します。
2xhで日本海ルートの人と、時々論戦します。
彼も、この頃は阿曇族が気になりだした様です。(笑)

あぶらばくさん

2013年09月04日 18:44

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面白くて止まりませんね。

トーセイさんとのやりとりに触発されて、私なりの九州北部域の古代国家像をやや妄想的に描いてみました。新しいトピをおこします。
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