趣味でつながる、仲間ができる、大人世代のSNS、趣味人倶楽部(しゅみーとくらぶ)

よくあるご質問

古代史「トレビアの泉」

現在利用しなくても、いずれは活用する事になりそうな興味深い事象を
時々記録しておきたいと思います。


倭国王帥升の事跡が、仲哀天皇と景行天皇の日本書紀に分けて記載されて
いる可能性があります。帥升時代の奴国の勢力範囲とも考えられます。

景行天皇「筑紫行幸」      仲哀天皇 「幸筑紫」

 1、到周芳娑麼(山口周防)  1、周芳沙麼之浦(岡縣主熊鰐)
 2、到碩田國(大分)      2、岡浦(遠賀川)
 3、到日向國           3、穴門引嶋(筑紫伊覩縣主五十迹手)
 4、襲國              4、到儺縣、因以居橿日宮
 5、幸子湯縣(宮崎南部)
 6、到夷守
 7、到熊縣
 8、到火國(熊本)
 9、到阿蘇國
10、到筑紫後國御木(三池)
11、八女國
12、浮羽
13、天皇至自日向

仲哀天皇の「橿日」(香椎)出発とすると、山口周防で合流し、
後、九州一周をすることになります。
帥升(九州勢力)の事跡が、大和朝廷(近畿勢)に活用された
可能性は大きいと思っています。

コメント

トーセイさん

2014年02月03日 22:50

藤原京から出土」した木簡の「鰯」の表記には、「伊委志」「伊委之」がある。

山口県熊毛郡出土の木簡にも、「伊委之」がある。

八世紀まで「ワ」は「委」と使われていた。

 「倭」 = 「委」 である。

志賀島出土の金印「漢委奴国王」は、後漢書の「倭奴国」で良いことになる。

トーセイさん

2014年01月05日 10:22

魏志倭人伝に記されている邪馬台国は、「邪馬壹国」になっている。

一方、通説は「壹」は「臺」の誤りとみなし、邪馬臺国の「臺」を常用漢字の「台」を用いて邪馬台国と表記している。  この邪馬台国は間違いであるとして、邪馬台国はなかったと主張したのが古田武彦氏であった。

 隋書巻三十三経籍志二に三国志六十五巻(陳寿撰・裴松之注)と見えていることから、 隋の朝廷には裴松之注の三国志があったことが確認出来ます。 その「隋書巻八十一列伝四十六東夷イ妥国」には、ご承知のように、下記の文があります。 「則ち魏志所謂邪馬臺者也 」

この頃朝廷に所蔵されていた三国志には裴松之の注が入っていたのですから、隋書の者、 魏徴の見た三国志もそれだったはずです。その三国志を見て、魏徴は上記のような文をなした。  つまり、魏徴の見た三国志には邪馬臺国とあったことになる。


私は日本の始まりは「委」「ゐ」「ヰ」という呼び名と考えているので、壹(イ)国に賛同する。

 魏志倭人伝
「南至邪馬壹國、女王之所都」
「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」

邪馬壹国に相対しての「壹與」であり、邪馬臺国なら「臺與」となるはずである。
壹與は、国名+中国式単名を名乗った初の倭王である。以後、倭の五王へと続いている。

壹国が臺国の間違いとするならば、壹與の三つとも臺與の間違いとしなければならない。
臺国が正しければ、当然の事と思われる。


 私は、邪馬壹国が正しいと考える。基本は「委」と思うからである。
「壹」と「臺」は、明確に書き分けられている。

トーセイさん

2013年12月06日 18:48

【陳寿のカンニングかな?】

漢書地理志・粤地条

「澹耳、珠崖郡。民皆服布如単被、穿中央為貫頭。男子耕農、種禾稲・紵麻、女子桑蚕・
 織績。亡馬与虎、民有五畜、山多麈鹿。兵則矛・盾・刀・木弓・弩。竹矢或骨為鏃。」

「会稽海外有東テイ人、分為二十余国、以歳時来献見云」



魏志倭人伝

「以木綿招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈?、作衣如単被、穿其中央貫頭衣之。種禾稲・紵麻、蚕桑・緝績、出細紵・?綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鉄鏃或骨鏃。所有無与澹耳・朱崖同。」 

「計其道里、當在會稽東冶之東」

トーセイさん

2013年10月27日 22:23

「ホケノ山古墳は伽耶系木槨墓」

現在、日本の歴史学会・考古学会を震撼させている一つの出来事がある。今年3月発掘された纒向(まきむく)遺跡のホケノ山古墳(奈良県桜井市)である。

それは3世紀半ばの最初期の前方後円墳であり、最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳よりさらに一段階古いこと、そして埋葬施設の内部構造が、それまでに前例のない「石囲い木槨墓」であることからである。

前方後円墳は日本独自の墓制で、かつ大和王権と共に成立したとされており、古代王権象
徴の墓制である。ところがこの「木槨墓」なるものは、1〜5世紀にかけて韓国東南部、弁辰
と伽耶で盛んに用いられた独特の墓制であった。


ホケノ山古墳からの出土品を調べると、伽耶との関係が一層はっきりする。

「二重口縁底部穿孔(せんこう)壺」

葬送儀礼用のこの壺は庄内式土器と呼ばれ、S(エス)字型口縁に特徴がある。弥生時代
後期と、古墳時代初期の布留(ふる)式土器との間を埋めるものであるが、この二重口縁形
式は釜山・東莱貝塚から祖型が発見されている。周濠内から発見された布留0(ぜろ)式土
器も金海や釜山に祖型が認められるもので、畿内特有のものではない。

トーセイさん

2013年10月16日 19:38

【 広形銅矛 】

日本書紀巻第二 ?代下 九段

「故大己貴?、則以其子之辭、白於二?曰、我怙之子、既避去矣。故吾亦當避。
如吾防禦者、國内諸?、必當同禦。今我奉避、誰復敢有不順者。乃以平國時所
杖之廣矛、授二?曰、吾以此矛卒有治功。天孫若用此矛治國者、必當平安。」

(大己貴神は、その御子も言葉を二柱の神に「わが頼みとした子は、もういま
せん。 だから私も身を引きましょう。もし私が抵抗したら、国内の諸神も同じに戦うでしょう。 今私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう。」と言われた。

 そこで国を平げられた時に用いられた【広矛】を二柱の神に奉られて言われるのに、私は、この矛を以って事をなしとげました。天孫がもしこの矛を用いて、国に臨まれたら、きっと平安になるでしょう。今から私は幽界に参りましょう。)

 と。言い終わると共に隠れてしまわれた。

トーセイさん

2013年10月07日 19:25

古事記 上卷-5  「葦原中國の平定」 建御雷?と国譲り

故、更且還來、問其大國主?、汝子等、事代主?、建御名方?二?者、
隨天?御子之命、勿違白訖。故、汝心奈何。爾答白之、僕子等二?隨白、
僕之不違。此葦原中國者、隨命既獻也。唯僕住所者、如天?御子之天津日繼所
知之登陀流此。下效此。天之御巣而、於底津石根宮柱布斗斯理。於高天原氷木
多迦斯理

【 天?御子之天津日繼所 】

トーセイさん

2013年09月06日 22:52

【 弥生人の人類学的形態 】
「対馬国志」 永留久恵著より、甲元真之「弥生文化の四つの地帯」から引用


  【第一地帯】
西北九州から西九州、南九州の沿岸部。慎重が低く、顔面頭蓋の径が小さく
骨格は華奢で骨の厚みが薄い。

  【第二地帯】
北部九州から響灘沿岸を中心に、日本海に沿って若狭湾付近までは、身長が
高く、頭骨の長さが比較的大きいのに対して幅が狭い。

  【第三地帯】
瀬戸内海東部から近畿、濃尾平野にかけては身長が高く、頭骨の長さが小さい
のに対して幅が大きい。

  【第四地帯】
福井県東部と愛知県東部を結ぶ線以東で、東北地方南部までは、身長が低く、
縄文人とほとんど変わらない体格である。


対馬は、この中の「第一地帯」に分類される。これは弥生人の本流が対馬には定着せず
九州や本州に渡った為で、対馬には縄文社会の伝統が色濃く敬称されていた事になる。

私の注目している「若狭湾」は、やはり重要地域と思われる。
昔は、遠賀川式土器の東限とも言われていたそうだ。

トーセイさん

2013年09月05日 22:26

「升」は、「叔」の草書体か 

魏志倭人伝に「難升米」、後漢書には「倭国王帥升」が記されている。
ところが、倭人伝の「彌馬升」は、太平御覧には「彌馬叔」と記されている。

太平御覧は、中国宋代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される。李?等による奉勅撰、977年から983年(太平興国2-8年)頃の成立である。御覧は、陳寿の三国志の原文を含んでいると評価されている。

そうすると、「叔」の草書体が、「升」ということになる。

「難升米」(なんしょうまい)は、「難叔米」(なんすくまい)となる。

 宮内庁書陵部の紹熙本
升の横に、「点」が付いている。 「叔」の草書体の可能性有り。
次の頁には、点が付いてない。?