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よくあるご質問

「後生を認める」

仏教とか、宗教とか、信仰とかこういうことは、
あくまでも死後の世界が存在するということが、
大前提であるわけです。
そんなことは分かってると皆さんは思われるか
も分かりませんが、ところが坊さんの中には、
特に仏教学者という坊さんですね。

お寺の住職さんで而も大学の教授をしてるとい
うような方々がたくさんありますが、そういう
方々は、ほとんど死後の世界を認めないですね。
和尚さんも宗派の仏教科を卒業しましたが、学
校では仏教は唯一の無霊魂の宗教だと、他の宗
教は皆、死後の世界、霊魂を認めると。
その証拠に、「無我」と説いてるだろうと。
それから「空」。
空ということは有ということを否定しているこ
となんだと。
そういう状態なんですよね。
それはもうとんでもない間違いでですね。
空とか無我とかそういう言葉は確かにお経の中
に出てきますけれども、それの判断を間違って
るんですね。
無礼な言い方かもしれませんが、ほんとうの意
味を分かっていない。
空とか無我とかいうのはほんとうにもう仏教の
奥の深いところですよね。そ
れは体験しないと分からない。
書いてるものを読んでるだけでは、こうかな、
というところまではいきますけれども、こうだ
ということは自分が体験しないと納得のいくも
のではない。
他の宗教は兎も角も、仏教という教えは、八万
四千の法門があるといいますね。
間口は広いし奥行きは深いし。
これも今まで何遍も申しておりますけれども、
お釈迦様が樹のひと枝を折って、弟子たちに、
お前たちはこの樹に茂っている葉の数と、私が
今折ったひと枝の葉の数とどちらが多いと思う
かと。
それは世尊、例えになりませんと。
樹に残ってる葉の数が多いですと。
これは何を例えたかと言いましたら、仏教の教
えというものは、今いうように間口が広くて、
奥行きが深くてこれで仏教は終りですというと
ころは無いんですね。
前にも申しましたが、人相とか占いとかそうい
うことは表には出てきませんけどあるんですよ。
比丘たちよ、私が今日まで説いた法門(仏法)
は、例えば今私が折ったひと枝の葉の数だ。
それに対して私が今日までまだ説いていない仏
法、未来にまだ説き切れない仏法の数というの
は、この樹の枝に残っている葉の数なんだよと、
こういう例えがあります。

コメント

まりさん

2013年09月16日 20:56

そのとうりでしょうね。
お釈迦様の予言したとおり、仏教は僧が破壊すると・・・

今の僧は自分たち家族が生きるための商売として考えてますね。

そらやさん

2013年09月16日 11:46

流した血液は大海の如く 骨は雪山の如く
無始より輪廻転生

禅宗の坊さんはあの世を信じる人
はいないようです。

そのようですね 勉強会にも年配の坊さん来たことあるけど

経典の解説聴いて そんな馬鹿なこと有るかと

怒鳴って 去った 別の住職は

仏道未だ廃らずといい残し その後

住職の紹介で京都の大学教授(哲学者)が、参加したことも有りました。

まりさん

2013年09月16日 11:00

尊い方々は皆ご苦労をなさってるのだから敬意を表した
らいい。
だから誘われたら何処へでもお参りに行くのは宜しいの
です。
あっちもこっちもお参りして貴方は何方に救われますの
かと聞かれて、はてな、となると困るんです。
お一人に決めないと。その方でなければと。
その方でなければ誰が何と言おうと私はこのお方だと。
ついて行くのはおのお方だとね。
この菩薩様、この如来様には敬意は表しますが私はこの
お方でなければと。
それは我々人間の付き合いと一緒です。
私はこの人となら何処へでも一緒に付き合いますけど他
の人はあかんと。
こうなってきますと付き合いが悪くなってきますね。
ですが自ずからこの人のためならという人がありますね。
分かり易くいうなら、この人とでもあの人とでも誰とで
も心中しますよと、こんなバカなことはありませんわね。
死のうというような人は一人しかないのと違いますか。
信仰もそうなんです。
救われたいというお方を早く決めたほうがいいですね。
そしてその方のお名前を称える。
阿弥陀様だけじゃないんです、お名前を称えるというの
は信仰の根本なんです。
阿弥陀様でしたら南無阿弥陀仏。
お地蔵様でしたら南無お地蔵様。
観音様でしたら南無観音様。南無の下へお名前を付ける。
あの世へ行って救われようと思うならそうしないと救わ
れません。
袖を掴んで離さないとか、来るなと言われてもついて行
くというような心境でしょうかね。




まりさん

2013年09月16日 10:58

善悪は聖者凡夫の隔ては無いんだと。
悟りを開いた人も悪いことをしたらその報いは必ず受け
るんだと。
いうことを百丈が答えたんです。
当たり前のことを説いたんです。
そしたらその老人が、まことにありがとうございました
と。
お陰で私は悟らせてもらいましたので今度は人間に生ま
れ変わることが出来ますといって、裏山に大きなキツネ
が死んでます。
それは私の死骸ですと。そこでひとつ葬式をして貰いた
い。

そういう伝記があるんです。
ところがほとんどの坊さんはこれを信じないですね。
これは禅宗ですが今の禅宗の坊さんはあの世を信じる人
はいないようです。
自分は悟ってるつもりでいても仏様の目で観たら大間違
いと。いうような禅を野孤伝というんですね。
愚者正法を説けば邪法となりという言葉があるんですが、
仏法を説いてるはずなんですが、仏法は正法なんですよ、
ところが説くべき本人が誤ってるから、仏教を説いてた
って邪教になってしまうということです。
だから本当の宗教に出会うということは、仏教からいう
と縁無き衆生は度し難しとか、縁ということをやかまし
く言いますね。
だから縁が無かったらなかなか救われない。
その縁というのは仏教に対してぱあっと縁を結んで、生
まれて来るごとに縁を結んで縁が濃くなっていくという
ようなことで、なかなか一度や二度のことで、だから私
たちはこうしてお話しに出会うことができたということ
は相当仏道に、前世何度も何度も生まれ変わってきて触
れてきてるんじゃないかなと思うのです。
兎に角、皆さんあの世があるんだということです。
お地蔵様もいらっしゃる、観音様もいらっしゃる、お不
動さんもいらっしゃる、tりゃんとあの世にいらっしゃ
る。
そういう方々の何方かを早く捕まえることですよ。
私は観音様を、誰がなんと言おうと観音様ですと。
お地蔵様ですと、こういうような方を早く決めることで
す。
分かり易くいえば好きになったらいいんです。
観音様が好き、私は観音様が好きですと。
観音様のお姿を一緒に抱いて寝てますと、そういうよう
な気持ちになってきたらもう信仰なんですよ。
信仰というと難しいように思いますけど分かり易く言え
ば好きになったらいいんです。
阿弥陀様を信仰してますといえば阿弥陀様を好きになっ
たらいいんです。
では他の仏様は知らん顔すればいいかというとそうでは
なく他の神仏は敬意を表し、私は阿弥陀様が好きですと。
何方に救われたいのかといわれたら、私は阿弥陀様が好
きですと。

まりさん

2013年09月15日 21:09

お読み下さり、有り難う御座います。

まだ続きがありますので。。。。宜しくね!

そらやさん

2013年09月15日 10:44

コピーさせていただきました

ありがとうございました

まりさん

2013年09月15日 10:01

これも以前に聞いてもらってるお話しかと思いますが、
中国の坊さんのお話しですが、その坊さんはあの世とい
うのをあまく考えていたわけです。
因果の道理というようなものはないと。
善因善果悪因悪果というのは凡夫の諭す沙汰じゃ、一旦
修行をして悟ったらもうなにをしようがわしはもう何を
してもいいんだと。
百丈山という山があるんですね。
その山に隠遁していた偉い坊さんが居って、人呼んで百
丈禅師と、山の名前で呼んでたんですね。
いつも説法してたら道場の隅で見知らぬ老人が聞いてた
んですね。
あれは見かけぬ男じゃな、誰だろうなと。
毎日何処からか出てきて聞いてるんですね。
そして一番最後に弟子たちが去るまで残ってる。
それでお前はいったい誰だと聞いた。
他の人はその老人が見えない。
百丈は悟った人だから見えるんですね。
それで他の弟子が去ったあとで、お前は誰だと聞いたら、
私はかつてこの百丈山で住んでいた僧だと。
それで多くの弟子を教育していて、或る時に或る弟子が、
修行を徹底して一旦悟ったら、もう良いことをしようが
悪いことをしようが、良いことはいいが悪いことをして
も善因善果悪因悪果で苦しい世界へ落ちるとか業を受け
るとか、そんなことがあるんですか、ないんですかとこ
ういう質問を有る弟子がしたんです。

そんなものはないと、凡夫は悪いことをしたら悪い報い
を受けるけれども、いったん悟ってしまったら何をした
って大丈夫だと、善因善果悪因悪果とそんなものは無い
んだと、こういう答えをしたというんですね。

ところが自分はそれが正しいと思っていた。
多くの弟子をそれで教化しているわけです。
ところが仏様の目出ご覧になったら、悟ろうが悟らまい
がそれは関係ない。良いことをしたら良い報いがあり、
悪いことをしたら悪い報いがあるのは聖者も凡夫も一緒
なんだ。ということで、それは死んで初めて分かったと
いうんですね。
だから多くの人を騙したというその報いで、キツネにな
ったというんですね。
これは百丈禅師の伝記ですから本当のお話しなんです。
「野孤伝」という伝記ですね。
それで初めて自分の過ちを悟って、なんとかして再び人
間に帰りたいと、生まれる機会が無くて生まれても生ま
れてもキツネばっかりに生まれ変わってきてるんですね。
なかなか人間界へ帰れない。
それで貴方様が最近この山で妙法をお説きになるのでな
んとかして救ってもらいたい、元の人間に帰してもらい
たいと思うて毎日毎日聴聞してますと。
つきましてはお尋ねしたいというて質問したのが、悟っ
た者でも悪いことをしたらその報いを受けるんですかと
聞いたら、それは受けると。

まりさん

2013年09月15日 09:59

だからこの宗教を置いて何故他の宗教にいくのか。
それは仏教の話しを聞かないからですね。今の坊さんは
仏教を説かないからですね。
こんな立派な仏教であるのに誰も説かない。
今この世に弘法大師のような方がいたら大違いなんです
がね。弘法大師は超能力もありましたしね。
兎に角、あの世というところがあるけれども、平坦なば
かりじゃなく地獄もあり餓鬼もあるんだということです。

和尚さんは鬼に囲まれて出てきた精霊も見ましたという
お話しも何度も紹介しました。
鬼にも形があるし、やはり絵で見るような格好をしてい
るそうです。
お婆さんが一人座って出てきて、鬼に監視されている。
このお婆さんは地獄に落ちた人に違いない。
それで行いを聞いてみたら、とんでもないお婆さんだっ
たんですね。
そういうことがほんとうに信じられないと、我々はこの
世のことばっかりに明けくれ明け暮れしていて、死んで
あの世へいったら、えらいことをしたと。こうなるわけ
ですよ。
兎に角、この世で目をつむって永眠といいますが、それ
は永眠じゃない、一時ですよ。
一時の目をつむって、あの世へいってまた目を開くんで
す。そしてあの世の生活が始まるんです。
今晩寝て明日の朝目が開くように、この世で目をつむっ
て開いたらあの世が始まる。
しかもあの世の生活は、この世の行いによって決まる。
それはもうどうしようもないんですね。
あの世へ行って、おまえはここ、おまえはここと振り分
けられてしまう。
自分はあそこは嫌だからここへ行きたいと言ってもそう
はいかない。
自分のしてきた行い、それに相応しい世界へ振り向けら
れる。
閻魔さんもいらっしゃいますし、鬼もいます。
阿弥陀様もいらっしゃればお釈迦様もあの世にちゃんと
いらっしゃるのです。
だからお経に説いてあるのは全部ほんとうだということ
です。
それを本当だと信じられないのは口はばったいことです
が体験をお持ちじゃない。死んであの世へ行ったらしま
ったなと、間違いをしたなということに気が付くだろう
と思うんですけどね。

まりさん

2013年09月14日 07:17

一番簡単な言い方をすれば、一番大きな宗教がまずは一
番安全だと思いますね。
つまり船、一番大きな船。
ボートのような船ではだめですね。
私はこう思いますけどキリスト教も含めて、仏教が一番
大きな船だと思う。
どの宗教にも宗教というのは教祖をいうのはあるんです
ね。キリスト教にはキリストが教祖。
マホメット今日にはマホメットが教祖というように教祖
というのが初めてその宗教を説いた人があるわけです。
ところがこの仏教は、この地球上に、歴史上に現れた如
来様はお釈迦様お一人で、そのお釈迦様がお開きになっ
た仏教を我々は学んでいるわけですけれども、お釈迦様
の予言によれば、末法は一万二千年で仏教は消えていく
というふうに説かれてますね。
ところが、無くなってしまって、そして人類も無くなっ
てしまう。
そしてまた次の地球が出来る。
今出来てるんだから過去にもあったに違いない、将来も
出来るに違いないですね。
一遍出来てるんだから、また出来るはずです。
太陽も月もまた必ず出来てくるに違いない。
その前に一遍消えてしまう。
ビックバンというのでしょうか、古くなった惑星は爆発
して飛び散ってしまうと、テレビで見たことがあります。
そしてまた散りが集まって星が出来ると。
新しく出来た惑星に地球が出来たのと同じように繰り返
し、生物が発生する。
そして進化して人間というふうにね。
それを永遠の過去から繰り返してるんですね。
お経にはそういう所が出てきます。
そしてお釈迦様が亡くなって、五十六億七千万年たった
ら、弥勒という人がまたこの世へ出てきて、お釈迦様と
同じように悟りを開いて、そして新たに仏教が始まると。
お釈迦様の何劫か前にカショウ仏という方がいらっしゃ
ってそして仏教を開いて、帰依してお釈迦様。
その何劫か前にも無数の仏様があるとお経に出てきます
ね。恒河砂数の仏有りと。浜の真砂の数ほどの仏。
だから仏教には無数の教祖様がいるわけです。
恒河砂数の仏の数が過去にもあり、未来にもあると。
こういうことを説いてるのは仏教だけしかないですね。
他のバイブルにも無いと思いますしコウライにも無いと
思いますね。
三大宗教というのは仏教とキリストとマホメットだけで
すからね。
だから過去の仏様、未来の仏様が次から次から出てきて
仏教を広める。そういう大きな宗教だということです。

まりさん

2013年09月14日 07:15

生死の海。生死ということは、生まれたり死んだり生ま
れたり死んだりですね。
これはまた別の和讃のなかの言葉ですが、
「生死の里に生まれ来て生死を悟る人はなく」
生死生死と聞かされるけど、生死とはいったいどういう
ことなんだと。
現に我々は生死ということは輪廻、人間界は輪廻の世界
ですから、その輪廻の世界へ生まれてきておりながら、
その輪廻ということについて気が付かない。

「無常の境に住む者も無常を知れる事ぞなき」
生死は即ち無常ということですね。
生まれたり死んだり生まれたり死んだりと変化していく。
変化していくということは、常が無いということですね。
さあっと変わって行くような変化の仕方もあるでしょう
し、我々の目に見えない変化の仕方もあるわけですよね。
この地球だって我々は分からないけれども、変化してい
るはずなんですよ。
地球でも月でも太陽でもだんだんだんだん破壊されてい
くはずなんですよ。
そういう目に見えない変化もあるけれども、兎に角朝太
陽が出て夕暮れには沈むというのはこれはもう無常です
ね。常が無い。
昨日まであの人は元気にしていたのに、今日はもう死ん
だ。とこうなるともう無常ですね。
そういう生まれたり死んだり、生じたり滅したりという
その無常の境に住む者も、というのは我々のことでしょ。
無常を知れる事ぞなき。
この無常というのはどういうことなんだと。

「仏道に志す者は無常を心得るべし。無常を心得る者は
地獄を怖るべし」
とこうなってるんですよ。
だからそういうまずはあの世を信じる。
あの世があるんだということを信じる。
そしてその次には、地獄もあるんだと、これを信じない
と救われたいという気持ちが切に起らない。
玄界灘という海がありますが、大変な大波が押し寄せて
は引いてますね。
その海を船頭さんを信じてるから渡れますが、我々が自
分の力でその荒波の海を渡ることを迫られたらどうしま
すか。
伝送大師はそういう例えを持ってきていますけれども、
なんとかしてこの海を渡らんならんと考えるわけです。
後ろから敵が攻めてきてるから捕まったら殺される。
この海を渡るほかはないんだと。
岸には船がたくさんある。
そのときに皆さんは、一番近いところにあるからこの船
に乗るとか、形のいい船だからこの船に乗るとか選んで
いたらもう攻められてしまいますね。
どの船が安全に向こう岸へ渡してくれる船であろうかと
いうところを目をあてて船を選ぶはずですね。
その船というのが、宗教なんですね。
だからそういうふうに宗教というのを選ばないといかん
のですね。

まりさん

2013年09月13日 10:28

超能力というのか神通力というのか、それに憧れて飛び
跳ねてみたりする人がいるようですが、超能力、神通力
に憧れてる人があるわけですね。
その超能力を求めて修行をするというようなことは邪道
です。
仏教の悟りとかいうものは、技術じゃない。
稽古をしてなるというものじゃないんですね。
お琴を習うとか三味線を習うとかピアノを習うとかとい
うのは稽古をして上達する、技術ですね。
ところが悟りというものは技術じゃない。
悟りとは煩悩との対決でしょ。
これを消すことが悟りですね。
悟りが高いということは煩悩が少ないということですね。
そして全部煩悩が無くなってしまった人を阿羅漢という
のです。
それでも仏様よりはもうちょっと煩悩が残ってる部分が
あるんですね。
煩悩が少なくなれば悟りが高まる。
だんだんと煩悩が少なくなって悟りが高くなって、終い
に煩悩が無くなって、滅尽定という定を体験出来て阿羅
漢です。
そういうふうな仏教のあらましをざあっと申したんです
が、仏教の体験というのかそういう世界があるというこ
とを大雑把にいいました。
中国で念仏を体制なさった善導大師というお方がありま
すね。
浄土宗のお仏壇を見ましたら、阿弥陀様の右側にあって
下半身が金色のお坊さんがありますね、あの方が善導大
師です。左側が法然上人ですね。
その善導大師が言われた言葉です。
生死甚難
厭仏法
復難欣
これは、生死甚(はなは)だ厭(いと)い難く
仏法復(また)欣(よろこび)難し
こういう文章をお作りになってるんですが、お経のよう
になってますね。
この生死というのは輪廻ということですね。
その輪廻を厭う。輪廻したくない。
解脱したいという気持ちがなかなかなれない。
ということですね。
そして仏法は有り難いんだぞと信じる。
信じていたら解脱するんだぞと、話には聞かされてもこ
の仏法はなかなか欣(よろこび)難い。求め難いという、
こういう善導大師の残された言葉ですね。
よく生死の海と、海に例える場合があるんですね。
その生死の海に我々は漂うていると。
こういう表現がよく出てきますね。
そしてその生死の海を助けて向こうへ渡してくれるのが、
仏法という法の船。これも例えの言葉ですね。
仏法は即ち生死の海を渡してくれる船であると。
薬に例えたり、船に例えたりといろいろ例えがあるわけ
です。

まりさん

2013年09月13日 10:25

それで大事なお経を結集するのに、皆が自分を必要とし
てくれてるのに阿羅漢でないがために、単に位をいって
るんじゃないんです、阿羅漢というのはなにもかも知り
つくした境地ですからね。
だからある程度の体験が出来てる人です。
ところが阿難は阿羅漢ではないからもうひとつという体
験が出来てないわけです。
だから入れることは出来ない、やっぱり阿羅漢にならん
と欠けるものが出てくる。
そうするとお経を私は聞いてる、お釈迦様がこう言った
といっても誤る恐れがあるんですね。
だから阿羅漢ではない阿難を入れるわけにはいかないん
だと。
それで四百九十九人で始めようかということになった。
それで阿難は実に残念だと。
残念ということは結集ということに参加出来ないことの
悔しさじゃなくて、大切なお経を集めるのに自分という
のが必要であろうが覚りが足りないがために参加できな
いのが残念だと。なんとかしてこの五百人の中に入りた
い。
それは名誉とかじゃなくて、お経のために。
經典を守るために。
それでなんとかして覚りを開かないといかんと、結集ま
でになんとかして阿羅漢にならないといかんというので
必死の定をするわけです。
定とは禅定のことでつまり滅尽定です。
阿羅漢の覚りの境地は滅尽定。
そして滅尽定に入るんです。
とうとう阿羅漢に成れるんですね。
それで阿難が、ひとつの洞窟の中で結集が始まろうかと
いうとき、阿難が外から合図して、阿難でございますと。
どうしたんだ。
はい、私は阿羅漢に成りました。だからどうぞ私を結集
に加えて下さい。
すると迦葉が、洞窟の中から、ああなるほど阿羅漢に成
ったなと。こういう境地の人は皆分かるんですね。
超能力の人たちばっかりですから。洞窟の外の阿難が阿
羅漢になったかどうか、洞窟の中からでも分かるんです
ね。
そういう境地があるんです、我々が分からない境地がね。
そしてどうぞ私を入れて下さいというと、迦葉が阿羅漢
に成ったんだから開けなくても入ってこれるだろうと言
った。
肉体は入れないけど阿難は洞窟の外で上に入って肉体か
ら抜けてすうっと洞窟に入った。
そういう場面がお経の中にあるんです。
そういうことはある程度体験が無いと、そんなアホなこ
とがあるかということになるんですね。

まりさん

2013年09月12日 10:01

そういう場面をまえにもお話ししたと思います、観無量
寿経のお話しだったと思いますが、それは肉体じゃない
んです。
それはお釈迦様が霊鷲仙で禅定に入って、そして肉体か
ら抜けて、そして空中を飛んできて、そして牢の中へ入
ってくる。舎利弗と目連を伴ってね。
そしてあのお経の最後の締めくくりのところに、「足虚
空を踏んで霊鷲仙に帰り給う」とこうなってます。
お説法もすんで、変えるときですね。
足虚空を踏んでというのは空中を踏んで歩いて、いかに
も道が有るが如く空を踏んで霊鷲仙へ帰る。
ぱあっと飛んでいかないんですね。
こういうことは、或る程度体験を持たないと、こんなア
ホなことはあるかと思うんですよ。それは肉体が歩くと
思っているから。
そうじゃないんです。それは霊魂が、戸を閉めてあたっ
たってすうと透っていくんですよ。

いろんな話がありますけれども、お釈迦様がお亡くなり
になって、そして結集(けつじゅう)ということをする
わけですね。
結集というのは、お経が散出してしまわないように集め
るわけですね。
第一結集、第二結集、第三結集とあるんですが、その第
一結集というのが、お釈迦様がお亡くなりになって初七
日から始まったとお経に出てきますね。
それは、お釈迦様が何処でどういうお経を説いたか、何
処でお釈迦様はどういうお経を説いたかということを文
字にしてる、つまりお経にしていくわけです。
昔はあの人たちは皆主に暗記していたみたいですね。
そういうことじゃ将来に伝えることが出来ないからとい
うので、そこで五百羅漢を集めたんですね。
千二百五十人の中から、特に五百人、所謂五百羅漢とい
いますね、五百人を選んで、そして結集する。
と、こういうことになってきて、そして四百九十九人ま
では決まったんですね。
勿論舎利弗、目連も入ってますけど迦葉という人があり
ますけがお釈迦様のお弟子の長老ですね。
お釈迦様より二つほど年が上だったように思いますが迦
葉というお弟子さん。
この人が上司となって五百羅漢を集めて結集しようと、
こうなった。
ところが四百九十九人までは集めたけどもう一人、阿難。
この人を入れたい。
何故かといいましたら始めから終わりまでお釈迦様に付
いて廻って、どんなお経も全部聞いてある。
この人をなんとかして五百人の中へ入れたいんだけれど
も、この阿難はお釈迦様が在籍中に阿羅漢に成れなかっ
た。
後もう一歩というところまではいったんだけど阿羅漢に
は成れなかったんです。

まりさん

2013年09月12日 09:59

我々がこうして人間界に生きてるということはもう迷っ
てる証拠です。
人間界は六道の中の欲界ですからね。
欲界の上に色界、その上に無色界と、この三つに分けて
三界というのです。
だから解脱というのは、三界解脱ともいいます。
この三界の中に輪廻があるわけですから、ここから出る
ことを解脱というわけです。もう輪廻しない。
輪廻しない人はどうするのかといいますと、あの世に居
る。
あの世でずうっと衆生済度してる。

例えば、お地蔵様とか観音様とかお不動様とかそういう
方々はあの世に居って、阿弥陀様でもお釈迦様でも、あ
の世に居って衆生済度しているわけです。
そしてこの世の我々にも病気を治して下さい、安産させ
て下さいというようなことでも授けて頂ける。
そういうふうにあの世の衆生もこの世の衆生もお救いに
なってる、そのお仕事だけでも大変な、勿体ない話です
よね。
自分の楽しみというようなことは何も無い、ただ衆生済
度ばっかりなさってるわけです。
なんとかして三界から出したい。三界に居てる間は欲界
から無色界まで上がったり下がったりして、そこから出
るというチャンスがない。

それはほんとうの覚り、ほんとうの信仰というのを持た
ないから、或る時は善いことをして良いところへ行き、
また或る時は悪いことをして悪いところへ行くという、
ぐるぐるぐるぐると繰り返している。
解脱ということは、生死。
生まれたり死んだりすることを卒業すると、こういうこ
とです。
オウムのいう解脱は飛んだり跳ねたりすることが解脱だ
というけど、あれは体操で、ほんとうの空中浮遊という
ものは、肉体じゃないんですよ。肉体じゃなくて、例え
ば座禅を組んで、そしてある境地に入ったら自由にこの
霊魂が肉体から出ることが出来るんです。

お釈迦様が、前にもご説明をしましたけれども、インド
に霊鷲仙という山があって、その山でお説法をしていた
わけです。
其の時の国王の太子が悪い子供で、早く国王に成りたい
ために自分の父である王様を牢獄へ入れてしまうわけで
す。
その王は、お釈迦様に帰依していたわけです。
牢獄の中でさめざめと嘆くんですね。
今までだったらお釈迦様に供養も出来るし、お釈迦様の
説法も聞かせて頂いてたが、こんな牢へ入れられたらも
うお釈迦様に会うことも出来ないというと嘆くんです。
するとお釈迦様は、霊鷲仙に居ってそれを超能力によっ
てその心を見抜いてしまうんですね。
そこでお釈迦様が、霊鷲仙からその牢の中へ飛んで入っ
てくるわけです。

まりさん

2013年09月11日 08:25

天上界でも二十八あるというのです。
その二十八のひとつひとつの間にもたくさんの段階があ
るんですね。
あの世のいいところはいいのですが、地獄にしても上中
下、上中下と、地獄だってひとつじゃない。
そういうあの世にも良いところもあり悪いところもある。
それは何故そういうところがあるかというと、我々のこ
の世の行いの善悪によって行くところが定まるのだと。
これはお経に説いてますね。
ところがあの世を信じない人は、そういうことを信じら
れない。これはもう仏教文学だと、こういうふうになっ
てきますね。
だから仏教というものは、体験をしないと分からない。
その体験ということは覚りということですね。ひとつの
ことを覚っていくということですね。
体験をして知るということが覚りです。
単に目の前に見えるものがあるというのではなくて、こ
んな世界があるのかこういう世界もあるのかと、それは
皆心の中なんですよ。禅定ですね。
禅定という世界。
そういう世界から説かれてきたものが仏教なんです。
そういう境地が全く分からない、分からなかったら永遠
に救われない、というところに他力浄土門というのが存
在するわけですね。
禅定もなにもいらない、ただひたすら南無阿弥陀仏によ
って極楽往生を願えばそれだけでいいわけです。
ただ阿弥陀様が存在する極楽は実在すると、これは認め
なければだめですね。極楽はあの世ですから。
これを信じられなければ浄土門もつまり信心も得られな
い。
兎に角、あの世はある。
霊界はあるんだと、これが根本的な様態ですね。
今日ニュースを見てますと簡単に殺人が行われています
が、仏教は不殺生戒という戒律がある。
殺生というのは一番罪が重い。
それを今の人は簡単にやってしまう。
そういう人は仏教を心得ている人ではないですね。
悪魔の化身というような人ですね。

あの世というところは、ひとつじゃない。
段階があるわけです。
あのオウムの宗教も解脱という言葉をいってますが、解
脱という言葉は仏教の言葉ですね。
この解脱ということは、生死解脱という意味ですね。
生死を解脱する。
生死ということは、生まれたり死んだり生まれたり死ん
だりということです。つまり輪廻ですね。
我々は今、この世へ輪廻してきてるわけです。

まりさん

2013年09月11日 08:23

無上ですからこの上ない覚り。
ということで、如来様のお覚りは、それ以上無い。
だから無上菩提ということは如来様のお覚りということ
です。この境地は仏様と仏様でなければ分からない。
仏様の境地ばかりを説いていたら他の人は分かりません
からね、阿羅漢の境地、縁覚の境地、声聞の境地、般若
心経は菩薩の境地ですね。
観世音大菩薩といって観音様の境地が現れてきますね。
ああいうお経は我々には分からない。
あのお経は、菩薩の体験の境地です。
観音様とかお地蔵様とか、そういう方々が体験している
世界です。

だから、その世界を体験していない我々が解釈しようと
すると、とんでもない間違いをする。
こうだろうと思って、それは想像にすぎないですね。
あの般若心経に一番肝心なところは、色即是空ですね。
この色というのは、色や形のあるものという意味で物質
なんですよ。
我々の見えてる物質は全て色。
人間でいうとこの肉体。肉体も物質ですね。
そういう物質も勿論色なんだけれども、般若心経で説い
てる色は、心の中の色なんです。
例えば霊魂の持ってる姿。
そういう形を色。その色が空だといってるんです。
眼で見えてる物質が空だと言ってると違うんです。
それをほとんどの人は体験がありませんので、失礼な言
い方ですが、この見えてる物質のことが色だとしか考え
られないんですね。
だから皆さん般若心経の本を見ましたら物質を色だとし
か解釈していません。
物質だという建て前で以って、色即是空を説明していま
す。これはもう間違いですね。
そんなことでは般若心経ということは分からない。
そういうことで、色即是空ということでも、無我という
ことでも、偉い先生方が解説してるんですが、失礼です
が体験をお持ちではない。
これは和尚さんも先生に習った若い頃はそうかなと思っ
ていたそうですが、今になってみたら先生は大きな間違
いをしてきたなと、そうおっしゃっていました。
そのときはまだ学生でしたから本当に分からなくて、先
生のおっしゃるとおりと聞いてきたそうです。
が、信仰も頂きまた或る程度体験も積んできたら、あれ
は違ってたと、とんでもない間違いだと。
大学であんなことを教育されたらこれは大変なことだと、
今はそう思ってると。
兎に角今いう宗教というものは、死後の世界をまず認め
る。
その死後の世界というものは、ひとつじゃないんですよ
ね。
我々人間の世界と、死んであの世の世界と、ふたつの世
界があるというわけですが、大雑把に分けたらふたつで
すが、例えば地獄とか餓鬼とか修羅とか、或いは天上と
か、これは皆あの世です。

まりさん

2013年09月10日 11:39

それくらい仏法は、他の宗教に比較して非常に幅が広く
て奥行きが深いんですよ。
それはただ表面の、我々が見たり聴いたり、この五感で
以って感覚したり、それもありますけどそれだけではな
い。
それじゃなくて、我々の心の世界というものを広げたも
のを仏教なんですよ。
「仏道を習うは心を習う」その心というのが、皆さんは、
感情とか理性とか、怒りとか愚痴とか貪欲とかそういう
無形のものであるとしかとらえない。
ところがそうじゃない。心というのは立体性がある。
心に立体性があるということを本人が体験しないと分か
らない、なるほど心にも形があったのかと。

念写の写真、れいこんの写真ですね、これはいい加減な
ものもありますが。
テレビでもたまにやってますが、影の形がたまたま人の
形になってるから霊魂の形だと、そんないい加減なもの
じゃないですね。
実際写ります。写真機を使わずに写るんです。
これは和尚さんもやりましたから。
だから写るということは形があるということです。
和尚さんがいつも霊魂を見て、こういう年格好のこんな
性格の人と言いますが、それは形があるから言えるんで
すよね。
霊魂にそういう形があるんです、霊魂というのは心です。
それは体験を持たないと和尚さんがいくらああだこうだ
と言っても、そうかいな、ああそうかなというところま
ではいくけれども、実際に物質を見るように自分の目で
見ないと感じ取っていただけないですね。
それと同じことで、仏教というのはお釈迦様のお覚りの
世界ですよね。
お釈迦様の心の世界を、お釈迦様の体験を広めて説いて
るのが分かり易く言えば仏教なんですよ。
だから、お釈迦様のお覚りの境地の分かってる人は分か
る。
お釈迦様のように、お釈迦様そっくりにはいかないけど
菩薩とか阿羅漢はお釈迦様のお覚りの三分の二以上行っ
てるんですから、その辺のことをお釈迦様がおっしゃっ
たら、自分の体験と照らし合わせて、あああそこだな、
あああそこだなと分かる。
ところが凡夫は分からないですね。
だから本当の仏様の境地は、仏様と仏様でなければ分か
らないというような言葉があるんですね。
「唯仏与仏」仏の境地は仏様出なければ分からない。
と、こういうお言葉があるんです。

「乃能窮尽」(ないのうぐじん)即ち能、窮(きわ)め
尽すということですね。
仏様はもう仏様のお覚りという無上菩提といいますね。
菩提とは覚りですね。