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よくあるご質問

ルネサンスとヒューマニズム

鯖田豊之著『ヨーロッパ封建都市』講談社学術文庫、西村貞二著『ルネサンスと宗教改革』講談社学術文庫、を読了。
 前著は,鯖田先生が卒業論文のテーマとして書かれたものが原型となり、その37年後に全面的改稿の上、学術文庫として刊行した処女作とのこと。
 あとがきに、「若さに気負い立った生硬な表現がやたらと眼についた」ので全面的に改めたそうで、むしろ私のような素人にはその方が読んでいて愉しいような気がする。京都大学史学科卒業後、京都府立医科大学に31年間奉職され(現名誉教授)、単科の医科大学でオーソドックスな西洋史学を研究するマイナス面もありながら、医科大学の西洋史学者ならではの学際的な仕事をされた。それは『生きる権利・死ぬ権利』新潮選書、『肉食文化と米食文化』中公文庫、『水道の文化−西欧と日本』新潮選書、『ラインの文化史−水とヨーロッパ社会』刀水書房などが書棚にあるが、自然と環境、食文化、特に上下水道の技術と文化の関わり等、史学家として歴史風土に立った比較文化的論述をされている。
 後著の西村先生は、鯖田先生より13歳年長、東京大学文学部西洋史学科卒業後、東北大学教授・元名誉教授。小林秀雄の従兄弟にあたるそうで、余談として、ルターの『キリスト者の自由』という宗教改革論文(文庫本にして3〜40頁の小冊子)は、「古今東西に宗教書多しといえども、分量の小ささと内容の豊かさにおいて、これに匹敵するのは、わが『歎異抄』ぐらいなもの」という。
 徳川時代、親鸞の主著『教行信証』は四種類刊行されたといわれ、そのうちの明暦本と寛文本は京都の丁字屋西村九郎右衛門が上梓したが、西村先生の先祖で、「お経屋の倅である私は、『正信偈』や『和讃』の一部をそらんじていた」と書かれている。私などはせいぜい6句しか唱えられない。学術書の中で、こうした思いがけない記述に出会うと、それだけでつい嬉しくなってしまう。
 ルネサンスは「文芸復興」と訳されるが、元来「再び生まれる」という意味のフランス語(イタリア語ではリナシタ)。つまり、抑えられ衰えていた人間の生活が復活すること。人間の力で中世を打ち破って近代を開こうとする広汎な動き、人間復活の風潮をいうが、ルネサンスと宗教改革は共通した特色と課題をもち、ともに近代の開拓に寄与した。
 その文化の大輪の花を咲かせた原動力は、古代文化の復興、国民精神の目覚め、都市生活の繁栄であり、これらが互いに離れがたく結びついていた。
 十字軍遠征を機に開かれた東方貿易によって、地中海沿岸都市は莫大な利益を得た。フィレンツェは毛織物、絹織物工業に加えて、ローマ法王庁の財政金融を一手に引き受けた。
 こうして11.2世紀頃、イタリア各地にコムーネとよばれる自治都市が勃興するに至った。
 ドイツアウグスブルクの商業財閥フッガー家は、宗教改革の中心人物であるカール五世の皇帝選挙に際して、その費用85万ドゥカーテンのうちの60万を調達したと言われる。また一方でフッガー家は、ローマ法王レオ十世にも莫大な貸金をしていた。督促してもどちらもなかなか返済しようとせず、切羽詰った法王は、ドイツにおける贖宥状(免罪符)の販売を許し、その金がフッガー家の金庫に入る仕組みとした。
 また皇帝カール五世は、1529年シュパイヤー国会で新教禁止令を発したが、これに対し、新教派諸侯6名と14都市が抗議(プロテスタティオ)した。これがプロテスタントの由来となっている。
 エラスムスは1466年にロッテルダムで私生児として生まれ、少年時代に両親を失って世の辛酸を舐め、アウグスティヌス修道院に入って22歳で修道士となった。その後、有力者の家庭教師となったりヨーロッパ各地を回ったが、腎臓結石の持病もちでもあった。
 おそろしく明敏な頭脳と類稀な巧妙なレトリックは「北方ヒューマニズムの王者」たらしめたが、ヒューマニズムの語源は「フマニタース」というラテン語で、人間らしさ、人間の価値とか尊厳を意味する。
 彼自身は篤信なカトリック信者であったが、ローマ法王や教会の腐敗を見るに忍びなく、鋭くキリスト教会を批判した。教会批判は、やがてルターの宗教改革を準備することとなり「エラスムスの生んだ卵をルターが孵した」といわれる。
 もう一人のヒューマニストのモンテーニュは、ボルドー市長も勤め、高等法院の役目も37歳で辞めてしまって、余暇を城館で思索と読書三昧で過ごし、『エセー』(吟味する意)を残した。「人間、如何に生きるべきか」に専念した「知恵」の流派であった。

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