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よくあるご質問

教養、そしてユマニストとは

渡辺一夫著『人間模索』、同著『僕の手帖』いずれも講談社学術文庫、読了。
 前書は1946年から49年にかけて、郵政省職員組合の求めに応じて書かれた文を補筆して「人間論」として発刊、51年9月に講談社学術文庫に収められたものである。戦後、「ヒューマニズム」とか「文化」についての関心の高まりに、著者はもとより知識人は原稿を求められることが多かったのであろう。
 その中に、「教養について」とある。
 《 「教養がある」ということは、「他人を困らせないこと、窮地に陥れないこと」「思いやりがあること」ではなかろうか。(中略)あくまで他人を信じ、理性と言葉という人間に恵まれた特権によって、相手の無益な怒りを買わぬように、冷静着実に表明し、同時に相手からの非難も、冷静謙虚に聴くことまでを条件とするのです。つまり、本来孤立している各個人が、誠実に連帯性をさぐる営みをお互いにすることであり、連帯性に発する倫理をお互い求め合うことであります》。
 
 後書『僕の手帖』の中に、「ユマニストのあわれ」と題して、エラスムスのことが語られている。前回の日記に、宗教改革は「エラスムスの生んだ卵をルターが孵した」と書いたが、読書の連なりの面白さというか、こんな偶然はよくあることでもある。
 《私生児として生まれ、事毎にそれが嘲罵の種とされ続けた時、ひょっとしたら、エラスムスは、学問で身を立てて世間を見返してやろうという気持になったかもしれませんし、酷薄な人々にもまれた結果、ある意味ですれっからしになった気味があったかもしれません》。
 エラスムスは政治や思想を批判し論じたりしたが、終始それは学者としてユマニストとしての発言であり、自らが政治のなかに入ることは、否定し通したのであった。
 そしてカトリックの司祭として、教会内での粛清を望み、またルッターも司祭としてカトリック教の改革を要求していたが、破門される身の上でもあった。
 新教運動が大きな高まりを見せ始めた頃、ルッターから援助を求める手紙が来た。
 《エラスムスの返書は、ルッターの情熱的な言辞とは反対な冷静温雅な文章であり、その内容は、ルッターの信仰的熱意はもちろん認めるが、改革の方法が好ましくないし、暴力は一切排するし、自分は、闘争よりも自分に使命として与えられたと信ずる研究に専念したいということでした。》と書かれている。
 (先生の表記は、ルッター、ルゥソー)
 『人間模索』の解説を書かれた二宮敬先生は、
 《エラスムスとのめぐり合いは、著者の考え方や、文体の上にまで大きな影響を及ぼしているように思われる。(中略)エラスムスは新約聖書原典やキリスト教教父哲学の、文献学的・歴史的研究の先駆として、あらゆる不便を忍び迫害に耐えながら偉業をなしとげた。しかもその間に培われた鋭い歴史的感覚と幅広い歴史認識の上に立って、同時代のキリスト教社会・文化の退廃老朽化を批判し、根源的な問いを投げ続けたのだった。》
と記している。
 1939年4月に東京高校教授を辞任したのも、日米開戦の翌年42年6月に東京帝国大学文学部助教授に就任後、皇国史観が横行して同僚の密告があり、先生自身も特高に目を付けられるといった、重苦しく耐え難い経験をされたからかもしれない。
 エラスムスに対する共感とスタンスは、エラスムスの生き方に先生の姿を重ねられたのかもしれない。
 大学教授として、二宮敬、串田孫一、森有正、菅野昭正、辻邦生、清岡卓行、清水徹、大江健三郎など多くの文学者を育てたが、「弟子」をつくることを嫌った先生は、教え子を「若い友人」と呼んでいたという。
 こういう人をユマニストというのだろう。
 渡辺先生は装幀家としても有名で、この文庫の表紙カバーも先生の絵で飾られている。
 本名のほか、六隅許六(むすみころく)の雅号で多数の作品があるが、フランス語のmicrocosme(小宇宙)のアナグラム(換擬語)で、ラブレー研究の第一人者として、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の「人間と申す別個の一宇宙」からヒントを得ての命名といわれている。

カテゴリ:ニュース・その他

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