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よくあるご質問

民心が離れた時代もあった聖武天皇。…素浪人の『万葉集漫談』(140)

(140)今しらす 久邇(くに)の都に 妹に逢はず
      久しくなりぬ 行きてはや見な
           巻四.768  大伴家持
大意・ 新しく天皇が治めますこの久邇の都の地にお仕えして久しく貴女にも逢えないでいます。奈良を訪れて早くお会いしたいなぁ。
(140’)ひさかたの 雨の降る日を ただひとり
      山辺に居れば いぶせくありけり
           巻四・769  大伴家持
大意・ 貴女にお会いする日もなく、雨の降る山辺に一人ただずんでいると、心も沈んで憂鬱なことです。

解説・ 741年、いよいよ天皇の恭仁の都での親政が始ります。内舎人の家持は日々その仕事に追われる傍ら、心は常に奈良への郷愁でした。最初は大伴大嬢への恋文、後は年上の恋人として知られる紀女郎にあてた歌です。いずれも心のやるせなさを嘆き、訴えています。
この年、五位以上の官人には奈良から恭仁への移住命令が出され、奈良の都に在った左京、右京の市もそれぞれ恭仁の都に移されました。
遷都に対する聖武天皇の心内の揺れ動きは如何なるものがあったのか…。
翌742年には紫香楽宮への行幸。そして743年に盧舎那大仏の造営を発願。しかも、この年の紫香楽宮への行幸は4カ月の滞在に及びます。744年には難波京への遷都、そして同年紫香楽宮への遷都となるのです。
仏教を以て国を治め民の平安を願った聖武天皇の心。彷徨して休まることがなかったのでしょうか…。

(140’’) 秋されば 春日の山の 黄葉見る
       奈良の都の 荒るらく惜しも
        巻八・1604 大原真人今城(まひといまき)
大意・ 秋になって春日山の黄葉はまことに見事で美しい。しかし遷都によって、奈良の都の荒廃が進んでしまった。本当に惜しまれて仕方のないことです!

解説・ 家持や今城の歌に見られるように、官人も鬱屈を募らせ、農民や庶民も、気まぐれのように遷都をする朝廷への不満がとことん高まったものと思われます。国家財政も当然のことながら逼迫をきたします。
墾田永年法で、新しく土地を耕す農民の私有を認め、奨励し、財収を増やす措置も取られてはいますが…。
しかし、政治に不慣れなこの聖武天皇のどうしようもないような政治も一段落して、やがて後世に残る「天平の文化」が絢爛と華開くのだから、歴史の流れというのはなかなか簡単には判断もできない気がします。
 もし、この時代「世論調査」があったら、国民の政府支持率は10%以下?…(笑)。尤も、天皇も官人、庶民に何れの都を好むかという、質問をされてはいます。
時間がたっと聖武天皇の実力はやがて、いろいろの形で具現していきます。今まで、架橋、道路補修、寺の建設等など社会事業にひた向きで、信者を増やし続けていた僧、行基との和解もその一つです。朝廷は農庶民が仕事を離れることで税収減を恐れて疎んじその活動を禁じていたのですが、行基のずば抜けた行動力や絶大な人望が、大仏の建設に不可欠という英断をされたものと思われます。
しかしその一方で744年、家持が心底期待申し上げていたと思われる安積皇子が急死されるという不幸にも見舞われます。

(140’’’) 大伴の 名負ふ靭(ゆき)帯びて 万代(よろづよ)に
        頼みし心 いづくか寄せむ
            巻三・480 大伴家持
大意・(軍備を司る豪族の名門として)大伴の名に相応しい靭を帯びて万代にお仕えしようと思っていた皇太子が急逝され、一体私の、途方に暮れた心を、どこに寄せたらよいのか…。          
解説・藤原一族の勢力の陰で息を潜めて生きるしかなかった家持にとって、この安積皇子の急死は、酷く応えたようです。皇子を悼む長歌があって、短歌2首。それが繰り返されています。この歌はその最後の作品です。説によると、皇子の死は藤原氏によって謀られたものともいいます。

さて、聖武天皇の手腕はどのようにして達成され、今日に名を残す大偉業を遂げられたのでしょうか。

カテゴリ:ニュース・その他

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