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よくあるご質問

『ゲーテとの対話』

エッカーマン著・山下肇訳『ゲーテとの対話』(下)岩波文庫、読了。
 具体的な日記のように、ゲーテとの対話内容が記録されているので、歴史的事件の傍証としても価値あるものとなっている。
 例えば、1825年3月21日から22日にかけてヴァイマル劇場が消失したこと。夜12時過ぎにエッカーマンは半鐘の音に眼が醒め、「劇場が火事だ!」との声に現場へ駆けつけてみると、
 《マントと軍帽をつけた一人の男ができるだけ火に近づいて立っていた。彼は、きわめて平然と、煙草をふかしていた。ちょっと見たところ、のんきな見物人のように見えた。しかし、そうではない。彼が二言三言命令すると、それを受けた人びとは彼から離れて、ただちにその命令を受けて実行に移していた。それは、カール・アウグスト大公であった。》
 大公は王者らしく、劇場自体は助からないと諦め、隣家に消火ポンプを向けるよう指示していた。劇場は老朽化しており、どう見ても美しいとはいえないし、年々増大する観衆を収容するには狭すぎた。ヴァイマルにとって偉大な愛すべき過去の思い出がたくさん結びついていて、それが無残にも焼け失せていくのは見るに忍びないものであったが・・。
 明けてからエッカーマンはゲーテの許へ行くと、彼に手をさしのべ「なにもかも失われてしまったね」と。
 朝早く孫のヴォルフがベットに来て知らせてくれた。ゲーテの手を握って大きな目でじっと見つめながら、「世の中とはこういうものですよ」と慰めたという。
 昔シラーと一緒に長年活動したこと、多くの愛弟子たちがやってきては成長していったこと、ゲーテは胸中に去来する思い出を語るのであった。76歳のときであった。

 1827年2月21日、ゲーテはフンボルト大学を創設した地理学者のアレクサンダー・フォン・フンボルトとパナマ地峡開鑿計画について話す。パナマ運河の建設について。
Wikipediaを見ると、その計画は1534年、スペインのカルロス?世(神聖ローマ皇帝・カール五世と同一人物)が調査を指示したとあるので、その歴史は古い。
 スエズ運河の設計者レセップスがパナマ運河建設を計画し、フランスの主導で1880年に着工したが、黄熱病の蔓延や技術的問題と資金調達の両面で難航し、1889年に計画を放棄。当時、パナマ地峡はコロンビア領であった。実際には、1903年11月3日、この地域がコロンビアから独立を宣言してパナマ共和国となり、アメリカはその15日後の11月18日にパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地域の永久租借権を取得して工事に着工。1914年8月15日、開通した。
 現在のパナマ運河はパナマ共和国が管理している。
 ゲーテの年譜を見ると、1825年3月7日に「パナマ運河の計画を論ず」とあるので、フンボルトと会う2年前から、ゲーテは関心をもっていたことがわかる。
 このように、語られているいろいろな項目を個々に辿っていくと、歴史的事実も自分の中で補強されていくのだろう。

 1972年6月10日に求めた本で、38年も経過して紙面も酸化して黄色みを帯びている。
 こうした本がまだたくさん書棚に眠っている。部屋にある本を全部読みきれるのであろうか、と考えてしまった。
 昨日も練習前に紀伊國屋で新刊書を数冊買ってしまった。
 年賀状にも書いたのだけれど、書棚の本は、孫に受け継いでもらおうとの願いもある。

コメント

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