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よくあるご質問

『ゴヤ スペイン・光と影』

堀田善衞著『ゴヤ スペイン・光と影』集英社文庫、?を読了。全2巻で1000頁にもなるボリューム。古くは1973年1月から76年9月まで「朝日ジャーナル」に連載されていて、74年から77年までに全4巻の単行本として新潮社から出版された。
 実はゴヤの絵はあまり好みでなかったのと、高価だったのでこの本を買わないでいた。
 もしスペインを旅するなら読まないで行くわけには行かない、と思って手にした。
 「スペインは、語るに難い国である」と、本文一行目が始まる。日本人の通俗的な先入観を覆すような、「スペインは寒い国である」というような記述が続く。
 首都マドリードは盛岡と同緯度で海抜646mの高原にあり、周りを取り囲む三つの山脈は灼熱の夏でもどこかに残雪を望むことができ、シエラ・ネバーダ山脈の名は「雪の山々」の意だという。南欧という括りにされると、つい早とちりしてしまう。
 スペインは絶えず外国の影響下にあった。ゲルマニアの森から西ゴート族が入り、ローマ時代のスペイン、800年に及ぶイスラム・スペイン、ウィーンのハプスブルク家と、パリのブルボン家の西欧文化が注がれた時代、フランス革命とナポレオンの影の下にあったスペイン、内戦時代の独伊、ソ連、仏英の影響下のスペインなど、この国に独自な内在する歴史があったのだろうかと歴史家は言う。
 キリスト教とユダヤ教が互いに争いながらも共存し、イスラム的な心性と文化、高度な技術もスペイン人の内部に色濃く存在し続けている。
 ゴヤは、1746年スペイン東部のアラゴン地方の寒村に生まれ、27歳でマドリードに定住し、43歳でカルロス四世の宮廷画家となり、78歳でフランスに亡命、1828年亡命先のボルドーで82歳の生涯を閉じた。その間に大は教会の天井画や壁画から、小は素描まで2000点の作品を残しているが、そのうち肖像画は500点あり最大の収入源でもあった。
 しかし、気が向かなければ手を抜くような出来不出来にムラもあるようで、「おそまつな醜い顔ではなく、彼が本気になったときの作品のように描いてくれるよう」との、仲介者への依頼の記録も残っているし、依頼者が手まで描いて欲しいというと、その分高い代金を要求したそうだ。
 が、画集に見られるような作品では、人物の性格までもが窺えるような、人間的な共感の有無が率直に作品に顕われる画家であったとも言える。
 ゴヤの父は、北部バスク地方系に先祖をもつ鍍金師、母はアラゴン地方の小貴族を先祖にもつ家系であった。アラゴンはスペインで最も自然の荒々しい地方で、激しい気性の人間を生むので有名だという。一方の父方のバスクの血は、北方特有の幻想性への傾きが秘められているようで、庶民の魂をもった田舎者ゴヤは、あくなき出世欲を漲らせて生きていた人であった。 妻ホセーファとの間に40年間に20人の子をなすが悉く夭折し、たった一人だけがゴヤに孫を見せてくれる。
 著者はウィーンの美術館で、《偶然に出会った日本人の美術愛好家らしい人から、「どうしてこんなところにベラスケスの絵が沢山あるのでしょうか」という質問を受け、「ここからスペインへ王様が行っていましたから、祖父さん祖母さんに孫の写真を見せたり、嫁入り用の見合写真、といったところですよ」と答えて、手ひどい軽蔑の視線を、この美術愛好家から浴びせられた経験がある。あまり常識的なことは言うものではなかった。》と書いている。こうした著者のサラリと言ってのける寸鉄は、小気味よくも随所に窺われる。
 《芸術家というものが、要するに誇り高い旅芸人であり、河原乞食であったこともつねに忘れてはならないのである。(略)トレドのエル・グレコもギリシャ人、メーリケに『旅行くモーツアルト』という小説があるが、彼らはすべて旅芸人であった。スペインを訪れたカサノヴァも、ロンドンにおけるヘンデルも、プラハのモーツァルトも、ストックホルムにおけるデカルトも、芸人に限らず学者もまたヨーロッパにおける文化担当者というべきもので、それが彼らの仕事の仕方の常態であり、19世紀以降に見られるような国民国家は成立しておらず、ヨーロッパとは、要するにキリスト教共同体であった。》

 今日は、以前に一緒にベネルクス三国を旅したF夫妻とSさんが札幌に来られこれから薄野で食事、明日は我が家に来ていただいて大宴会と、そして次の旅の相談を・・・。
 写真は、アルバ公爵夫人、妻ホセーファ、カルロス四世家族

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