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よくあるご質問

ビザンツの妃選び

高階秀爾著『フランス絵画史』講談社学術文庫、橋口倫介著『中世のコンスタンティンノープル』講談社学術文庫、を読了。
 前書は、16世紀のフォンテーヌブロー派から19世紀末までのおおよそ400年に近いフランス絵画の歴史を纏めたもので、360頁に及ぶその多くは、小学館版の『ルーブルとパリの美術』、学習研究社版の『大系世界の美術』の解説として執筆されたものを、通史として整合性を取るために欠落部分を補い、大幅に加筆されて学術文庫として刊行されたもの。
 後書は、紀元330年、コンスタンティヌス大帝の遷都によってビザンティン帝国の首都となったコンスタンティンノープル。15世紀にオスマン帝国に征服されてイスタンブールと名を変え、東西の政治文化交流の接点の役割を果たし続けた1000年の歴史を刻むビザンティン帝国の歴史。ギリシャ・ローマの古代文明が中世に継承され、ビザンツ・中近東文明が西欧の歴史に寄与した様相が描かれている本であった。
 中世史以降の歴史は興味があってよく読むけれど、ビザンツについてはどうも弱い。
 というわけで「NHK高校講座」を見ることにした。
 インターネットに打ち込むと講座が開かれ、世界史の一学期に、「ビザンツ帝国」がある。
 395年にローマ帝国が東西に分裂し、476年には西ローマ帝国がゲルマン人の侵入を受けて滅亡。しかし首都コンスタンティノープルは、周りを海と城壁で守られていたため外敵の攻撃に耐え、東西交易の中継地として繁栄を続けることになる。
 6世紀のユスティニアヌス大帝の時代には、旧西ローマ帝国の領土だったイタリア半島・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、地中海沿岸の大半を再統一。ユスティニアヌス大帝は、共和政以来のローマ法をまとめた法典『ローマ法大全』を整備するなど、ローマの伝統を受け継ぐことに努め、今のイスタンブールには大帝が再建した聖ソフィア聖堂がある。
 実は、雪が解けたら旅行をと考えているのだが、本命はスペインでトルコも候補地のひとつにしている。先日のF夫妻との話で、「スペイン」と「ミュンヘンと東フランス」のコースのどちらかに、というのが今のところ有力なのだが。
 話を元に戻そう。ユスティニアヌス大帝よりも妃のテオドラの方が評価は高い。
 テオドラは皇帝の相談相手となり、弱気な夫を励ましましたというのだ。特に有名なのが、532年、馬車競技場から起こった首都市民による「ニカの乱」の際の、テオドラの毅然とした態度であった。同時代に書かれた『戦史』によれば、反乱にうろたえて逃亡しようとするユスティニアヌスを、テオドラは次のようにいさめた。
 《「たとえそれによって命ながらえるとしても、今は逃げる時ではありません。この世に生まれた者は、死ぬのが定めとはいえ、皇帝であった者が亡命者となるのは耐えられますまい。・・・生き延びたいとお思いでしたら、陛下、難しいことではありません。お金もたっぷりあります。目の前は海、船も用意されています。けれどもお考えください。そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったといえるようなものでしょうか。私は、古の言葉が正しいと思います。「帝衣は最高の死装束である」と。》
 天晴な妃で、彼女がいなければユスティニアヌスも、即位数年にして帝位を追われた無能な皇帝としか歴史に名を残さなかったのではないか、と歴史書に書かれている。
 テオドラは弱者に対しても優しい女性で、孤児院や病院に寄付を行ったり、売春婦たちの福祉や厚生に尽力したが、テオドラ自身も若いころ売春婦でもあったとも伝えられているが、父は馬車競技場で働く熊の世話係であり、テオドラも踊り子であったという。
 830年の夏、大宮殿で美人コンテストが開かれていた。審査委員長は皇帝で、前年に即位した17歳のテオフィロスであった。審査の最後に青年皇帝は一番美しい娘に黄金の林檎を手渡す、その娘が妃となる・・・。
 数ヶ月も前から、妃候補の娘を探すために全国に使節が派遣され、候補者の条件は何よりも美貌であり、使節には理想の皇紀の似顔絵が渡され、年齢、特別製の物差しをもって身長も、靴も、まさしくシンデレラそのままに。
 こうして選ばれたのが、15歳のテオドラであったのだ。
 美人コンテストによる妃選びは、ビザンツ帝国の後継者と称したロシアでも行われた。貴族の娘から候補者は選ばれたが、ビザンツでは美人でありさえすれば誰でも参加できた。
と、中央公論社刊『世界の歴史11、ビザンツとスラブ』の冒頭に書かれている。

カテゴリ:ニュース・その他

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