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よくあるご質問

素浪人の『万葉集漫談』(154話)…悲運を死後まで引きずった大伴家持。

764年1月に大伴家持は薩摩守に追われそして、吉備真備が造東大寺長官に任命されます。
孝謙太上天皇の僧、道鏡の重用がいよいよ進み、次第に藤原仲麻呂(恵美押勝)は疎まれ9月、ついに太上天皇と仲ただならぬ道鏡の勢力を削ごうとして兵を挙げます。これが世に言う恵美押勝の乱です。しかし乱に敗れた押勝(59歳)は、やがて捕らえられて斬首。
道鏡がついに、大臣禅師に任命されます。
10月、押勝が推した淳仁天皇も廃され淡路へ配流。
765年、太上天皇が自ら重祚して称徳天皇となり、10月道鏡を太政大臣禅師とします。
(扶桑略記によると大和西大寺の創建もこの年です)

吉備真備は昇進目覚ましく、1月に中納言、3月に大納言、10月には右大臣となり、いままで押勝とそりの合わなかった藤原永手を左大臣にすえます。
そして道鏡はついに法王となり、宗教、政界のトップに座ります。
一方、大伴家持は767年8月に太宰少弐。

769年には道鏡を天皇へ推すというご神託を確認するために宇佐八幡神宮へ派遣された和気清麻呂が、「我国は、開闢以来君臣定りぬ」と、その非を奏上してこれを阻止。ために大隅に流されます。

770年6月大伴家持は民部少輔となって都に戻りその年の8月4日、病気療養中の称徳天皇が崩御されます。
そのため、21日には天皇のご寵愛深く権勢を誇った道鏡も造下野国薬師寺別当に追われ、逆に9月には和気清麻呂が都に召喚されて復権します。 大伴家持も左中弁大輔に昇任。
10月には久しかった天武系の天皇が終りを告げ、天智天皇の孫、光仁天皇(志貴皇子の子)が即位されます。

従5位上に放置されること実に25年に及んだ家持もこの年、正5位下に昇進、その翌771年には正5位上を飛び越えて従4位下となり、それに応じて官職も日に変わり月にのぼる勢いで774年相模守、776年伊勢守、780年にはついに参議となって政府の中心に足を踏み入れ右大弁を兼務します。
そして781年桓武天皇が即位されると、早良親王が立太子され家持は東宮大夫を兼務となります。

さて、『万葉集』の成立は家持が編集に大きく関わったとされますが、薩摩守に追いやられる前の信部少輔時代(762〜763)の2年間に簡単な整理がされ、過去の蓄積した膨大な原稿に本格的に手を加えたのは、こうした、官界上層部に入り宮中の高官と華やかな社交が展開できた期間の傍ら、必死になって積み上げた仕事の結実かと思われます。
家持は、783年中納言、784年に持節征東将軍となり多賀城に趣きそこで68歳で病死するのですが、家持の死んだ年に起こった藤原種継、暗殺の首謀者とみなされ、屍百叩きの刑に処され、すべての身分官位を剥奪されます。死後の刑罰です。
『万葉集』は重罪人の手になったということでしょうか、没収お蔵入りとされてしまったと考えられます。
806年3月17日、桓武天皇の裁量で、大伴家持が赦されて従3位に復します。奇しくもこの日に桓武天皇は崩御されるのです。

こうして晴れて罪人ではなくなった家持の大労作、『万葉集』がやっと日の目を見ることになったのです。平安の時代に入ってからのことでした。
歌のない『万葉集』の時代の、あらましを縷々と綴りました。

その死後まで悲運に泣いた大伴家持の歩みと大きくかかわった世界的な文化遺産『万葉集』は、こうした薄氷を踏むような運命を辿って、今日われわれの目を楽しませ、心を癒してくれる存在だということを、少しお話ししておきたいと思ったからです。

カテゴリ:ニュース・その他

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