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親日国トルコとの架け橋山田寅次郎

松谷浩尚著『イスタンブールを愛した人々』中公新書、読了。 副題に「エピソードで綴る激動のトルコ」とある。著者は、昭和19年生。慶応大学大学院修士課程修了後、イスタンブール大学ph.D.(政治学博士号)取得。69年外務省入省。通算12年間、在トルコ日本大使館、及び在イスタンブール日本国総領事館に勤務。本書発刊時は総領事。
 イスタンブールに滞在した日本人5人を含む12人の人物の行動と記録を通して、オスマン帝国崩壊からトルコ共和国誕生まで、一世紀に亘る激動のトルコ情勢を紹介している。
 クリミヤ戦争時イスタンブールで看護活動をした白衣の天使ナイチンゲール、トロイの遺跡を発掘したシュリーマン、トルコ人が最も敬愛するフランス人作家であり長崎でお菊さんと同棲し、芥川龍之介の『舞踏会』にも登場するピエル・ロティ、日本・トルコ友好親善の先達・山田寅次郎、トルコで崇敬される日露戦争の英雄・乃木希典、トルコ革命を支援した日本人・大谷光瑞、後に総理大臣となったトルコ大使館一等書記官・芦田均のほか、橋本欽五郎、トロッキー、アガサ・クリスティー、ブルノ・タウト、キケロの12人。
 この中の山田寅次郎について、簡単になぞってみたい。
 トプカプ宮殿の中門を入ると中庭があり、その右手のかつての厨房であったところにあるおびただしい陶磁器の中に、中国の白磁・青磁とともに伊万里焼、有田焼が展示されているという。また中庭の左奥の宝物殿には、日本の鎧・兜、上品な陣太刀がガラスケースに収められており、「日本人山田寅次郎よりオスマン帝国アブドゥル・ハミト二世に献納されたものなり」と説明が付いているという。
 今日トルコが世界有数の親日国であるのはなぜか。幾つか挙げられるだろうが、山田のトルコへの愛情と両国間の友好親善の地道な努力があったお陰によるものであろう。
 1890年(明治23)9月16日に紀伊半島の南端沖でトルコ軍艦エルトゥールル号が遭難し、581名の将兵が艦と運命をともにし、生存者は僅か69名という大惨事が起こった。
 これは1887年の小松宮彰仁親王同妃両殿下のトルコ訪問の答礼として、海軍の練習航海、日土条約締結交渉の促進、汎イスラム主義の宣伝と国威発揚などを目的として、オスマン・パジャを特使として11ヶ月の長い航海の後、1890年6月7日横浜に到着。明治天皇に拝謁するなど約3ヶ月の日本滞在の後、帰国の途に着いたのであった。
 9月16日夜半の激しい暴風雨の中、エルトゥールル号は和歌山県串本町沖合の樫野崎灯台の岩礁に衝突して難破。生存者は地元住民の手厚い救護を受け、日本政府はこれらの生存者を軍艦「金剛」と「比叡」でイスタンブールまで送還した。この送還中の艦上でのトルコ兵の様子については、司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』に記述されているという。
 多くの犠牲者を出したこの事件は大きな衝撃を与えるとともに、わが国の皇室に敬意を表し将来の修交を求めんとしたこの使節の目的は、当時の義心の強い日本人に同情と悲しみを与えた。当時24歳の熱血青年であった山田寅次郎は、生存者と死亡者遺族を慰めるべく新聞社の協力を得て、全国を駆け回って義捐金を募った。これをどのようにトルコ政府に送付するかについて時の外務大臣青木周蔵に相談したところ、寅次郎の情熱と博愛心に強く感動した青木外相は、「これは君の義心から出たのだから、君自身がトルコまで赴き、直接手渡したらどうだ」と勧めた。
 1892年4月4日、寅次郎はイスタンブールに上陸。皇帝アブドゥル・ハミト二世に拝謁する機会を得たが、その際に父祖伝来の明珍作の鎧と兜、豊臣秀頼持の陣太刀を奉呈したのだった。義捐金の領収書や寅次郎の旅券などが、その後、山田家から寄贈されてイスタンブールの海軍博物館に展示されているという。
 寅次郎は大歓迎を受け、皇帝からしばらくトルコに留まってトルコの士官に日本語を教えてほしいと要請され、その後20年に及ぶイスタンブールの滞在の始まりとなった。
 また寅次郎はイスタンブールの繁華街で中村商店という雑貨店を経営して、日本・トルコ貿易に先鞭をつけたばかりでなく、生涯を両国の友好親善に捧げた「民間大使」であった。文化交流の面でも、ユルドゥズ宮殿で皇帝とその側近の高官に日本の文化である茶の湯の点前を披露したが、日本の茶道が海外に紹介されたのはこれをもって嚆矢とする。

 今日は午後から旅行社の説明会に参加し、4月のトルコツアーの申し込みをしてきた。母の体調のことなど心配もあるのだが、とりあえずトルコに関する本を読んでいる。

カテゴリ:ニュース・その他

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