趣味でつながる、仲間ができる、大人世代のSNS、趣味人倶楽部(しゅみーとくらぶ)

よくあるご質問

子どもたちにいい文章をたくさん読ませたい

丸谷才一著『完本日本語のために』新潮文庫、を読了。
 昭和53年と61年にそれぞれ文庫化された、『日本語のために』と『桜もさよならも日本語』を台本として若干の章の加除が行われて『完本』としているので、その多くはうっすらと記憶にあった。
 国語教科書批判として、子供に詩を作らせるな、よい詩を読ませよう、中学生に恋愛詩を、などたくさんの項目が続く。
 具体的な例を示しながらその論拠を展開している。
 「文部省の検定とやらは、平和をたたへたり戦争の悪口を言つたりさへしなければ、どんな愚劣な文章が収めてあつても差支へないといふ方針と見受けられる。つまり文体についての関心のない人々が、編纂したり、監修したり、あるいはさらに検定したりしてゐるのが、国語教科書の現状なのだらう」。彼らが関心を持ってゐるのは、倫理とお説教だと。

東京書籍『改訂新しい国語』三上『タンポポ』といふ詩(?)
 だれでも タンポポをすきです
 どうぶつたちも 大すきです
   テイヲハの誤り、「タンポポが」とするのが正しい。

 むかし むかしの ことでした。
 おやゆびたろうが ありました。
  親指太郎は物ではない、人間なのだから「おりました」
  にしなければ。

東京書籍『新しい国語』中一の『春の岬に来て』
 明るい春の岬のながめは
 ごちそうのうちのひとつだ
 潮の風と花のにおいにつつまれて
 いっそう心がふくらむ

 心をふくらませているのは
 旅のわたしたちばかりではない
 バレリーナーのちょうもしま模様のはちたちも
 春のパーティに酔っている

 「発想は陳腐で下品である。言葉の選び方もいちいちぞろつぺえである。バレリーナーと延ばすのは間違ってゐる。無理をしてこんなものを選ばなくちやならなゐくらい、現代日本の詩は貧しくないはずだ。教科書編纂者たちがよほど詩がわからないか、日ごろ詩に親しんでゐないか、あるいはその両方か」。
 巻末付録の対談で、「うちの息子は小学校のとき、中学校のとき、ずうっと詩を馬鹿にしていた。くだらないことを下手な文章にして、行分けしてあるだけと思っていたんだって。それ以外に詩を読んだことがなかった。高校生になって、ある日、本屋でひょいと文庫本をひろげてみたら、ものすごい詩があった。こういうものが詩なのだと目からウロコが落ちる思いで、その文庫本を買ってきたんだと話すんです。それ誰の詩集って聞いたら、中原中也だった」。

 「小学校はともかく、中学、高校の国語教科書はもっとうんと厚くして、いい文章をたくさん載せる。そしてそのなかから先生が選んで教える。教えなかった部分は生徒が勝手に読む。そういうことにすればいいのにね」。

 大学入試の国語問題についても、東大文系、慶応法学部の現代国語の愚問、珍問、怪問に呆れ返り、絶望したと、その具体例を掲げて批判している。
 対談で、「あれが出てから、池田弥三郎さんが同級生と会うたびに「お前が勤めているのに、どうしてあんな問題を出したのか」と怒られるんですって。それで池田さんは随筆で、他学部の入試問題なんか見ることができないんだと、愚痴をこぼした」。

 丸谷さんは教科書批判をするときに全部の教科書に目を通したという。
 筑摩の教科書は突出してよかったが、採択率は一番低い。筑摩の編集者に教科書をやんやと褒めて、しかしどうしてあんなに採択率が低いのかと。彼が言うには「地方自治体の教育委員が東京に出てくると、後楽園球場に連れて行きそれからキャバレーに連れて行って接待するんです。各社こぞって。もちろんそのあとの面倒も見る。「うちの営業の連中はそんなことをするより帰って本を読みたいってのが揃ってますから、まあ仕方がない」。
 「もし俺が筑摩の営業だったら、日本中の子どものために、毎晩後楽園にも行き、キャバレーにも行って教科書を売るがなあ。会社のためじゃなく、子どもたちのために」と言った記憶があります」。
 下賎な私は、教科書出版社と文部官僚との関係についても、つい妄想してしまった。

 教科書の外人名表記は、ヘレン=ケラー、アダム=スミス。昭和20年代の文部省内の書類に二語以上つづく外国人名では=を、二語以上つづく外国地名は-を間に挟むという決まりだという。新聞も百科事典もヘレン・ケラーなのに、関係者は未だに文部省に媚びてそれを正そうとしない。

 例によって、本の抜書きに終わってしまった。

コメント

コメントはログインすると見られるようになります。