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よくあるご質問

家持の大器を育てたか、その子供時代。…素浪人の『万葉集漫談』(207話)

家持が生れ、幼時を豊かに過ごした佐保の豪邸は、大納言で大宰帥・大将軍も兼ねた、祖父の大伴安麻呂が建てたもので、それは広々と格段に大きく、父の旅人もそこで生活していたのでした。晩年になるまで子供に恵まれなかった旅人でしたが54歳で家持が生まれると、弟の書持、妹の留女にも恵まれたのです。
当時、旅人は従4位中納言でした。
母親(丹比郎女説、大伴郎女説等もある)の詳細は不明ですが、こうした経緯からみると、かなり若い女性ではなかったかと思われます。両親の膝元で英才教育を受けながら名門の貴公子として優雅な幼児期を過ごしたことになります。
しかし神亀3年(726)か4年、家持9歳か10歳の時、父の旅人が大宰帥に任命され九州に下向することになります。
旅人の西下は、藤原武智麻呂、宇合(ウマカイ)ら4兄弟の策謀によるもので、武門の誉れ高い皇親派大伴氏の棟梁を遠ざけておいて、その留守中の729年(天平2)、皇親派で最大の権力者、長屋王を密告により謀反を起こしたとし、死に追いやったのです。
そして皇親派に邪魔されていた皇族出身以外では例がないとされた光明子(不比人の子)を、皇后に立后させ、藤原時代を築いていったのです。(一説では、伝承の時代の磐姫(イワヒメ)皇后の例が論拠とされたとも言います)

(207) 草枕 旅行く君を 愛(ウルハ)しみ
      たぐひてぞ来し 志賀の浜辺を
        巻4・566 大伴百代(モモヨ)
解説・ 都へ旅立ち帰ってゆく君たちが慕わしく、離れがたいのでつい連れだって来てしまった。志賀の浜辺の道を。という意味の使者を見送る歌です。

(207’) 周防(スハ)にある 岩国山を 越えむ日は
       手向けよくせよ 荒しその道
     巻4・567 山口忌寸若麻呂(イミキワカマロ)
解説・ 周防の国に聞えた岩国山を越える日は峠の山に念を入れて恭しく手向けしてお帰りなさいよ。そこは険しく危険ですぞ。という意味で、都人が帰途に就く旅立ちに対する餞別の歌です。 
 実はこの2首、旅人が重病にかかって遺言すべく、許可を得て庶弟大伴稲公(イナキミ)らを呼び寄せ、その帰途を見送りに来た百代と、若麻呂の歌なのです。
このとき、実は旅人は、息子の家持も同行させ、使者である都人の見送りをさせたのです。天平2年(730)、家持13歳の頃です。
もう、一人前の大人の扱いと言っていいでしょう。
さぁ、こうして家持は父旅人の部下である多くのすぐれた政治家、宗教家、歌人たちと直接、間接に接触する機会を得たことでしょう。 
旅人の九州転任は、思いがけず、家持の素養や資質がやがて大きく花開いてゆくのに大変、意味のある時代ともなったのでした。

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