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よくあるご質問

高校卒業47周年の同期会

5月8日に、第9回を数える高校合唱部OB演奏会が、札幌教育文化会館で開催された。私もOBとして過去6回ほどステージに立ったのだが、今回もパスした。
 母校合唱部を北海道一に、全国コンクールに出場するほどのレベルに育て上げた恩師の〜W・R先生を偲んで〜という冠演奏会であった。この演奏会に合わせて高校の同期会が企画された。次回は50周年にと言っていたのだが、級友の急逝などもあって急遽の開催となった。

 それは炭鉱町特有の、一旦坑内事故が起きれば決して他人事ではなく、街全体がまさに運命共同体となることから、それだけ人間関係の紐帯・絆が深いということでもあろう。
 クラス会を隔月で、東京と札幌でそれぞれ集っているというのはむしろ異常なことかもしれない。出かけるときに家人から「物好きに」と言われている人も多いのだと思う。
 山合いの炭鉱町の景観はどこも似たようなもので、谷底には黒い川と鉄道と奥地へ誘う曲がりくねった道が、共に寄り添うように伸びている。そして山の斜面に這い蹲るように階段状に炭住がびっしりと軒を連ね、そして夕暮れとともに向かいの山の端の空との接線まで続く家並みの電灯の棚が輝き始め、相互に向かい合ってそれを望むことになる。
 このように高みに身をおいて俯瞰した視野に、時間の経過とともに人の動きが見て取れるのだが、こうした環境にいると何事にも時間軸を添えて視覚的に認識することになる。
 あの電灯の光の下で、それぞれの人生が刻まれつつあるのだ、という想いなのである。
 そうした俯瞰した見方は人生において、またその歴史認識のベーシックなものとして、少なからず己の生き方に投影されているように感ずるのは、私だけだろうか。
 65歳を越えつつある同期の友と、今会えるうちに、と考えるのは必然的なことだと。

 演奏会の後、卒業47周年同期会の前夜祭と称して居酒屋に30人ほどが集まった。そして、翌日午後、貸し切りバスで一路夕張のホテルへ。
 私は宴会前の空き時間に「夕張市美術館」に行ったが、生憎月曜の休館日だった。ここには自ら炭鉱マンであり、夕張の風景をひたすら描き続けた画家・畠山哲雄さんの作品が多数展示されている。
 陵線の美しい夕張の雪山、埋もれた平たい家並み、清澄な空の下に潤んだ空気感を漂わせる雪に包まれた谷間の家々など。 畠山さんには《絵のある夕張・その鎮魂の風景》と題する大判の作品集も出版されている。また松田芳明さんという著名な写真家もおられるが、《ふるさとヤマ真谷地》という写真集も私の書棚に並んでいる。
 その写真集に、欠口(かっくち)と呼ばれる採炭現場に近いところで、弁当を食べている坑員さんの写真がある。

「各自の欠口で天磐や炭壁に気を配りながら、昼食をとる。
 小さな石炭が落ちてくるので、弁当箱のふたはほんの少ししか開けられない。
 時には新聞紙を頭にのせて食べることもある。

 《この写真ナ、オラが炭鉱をやめるまでゼッタイ人に見せんなヨ、こんな真っ黒くなって、こったらところで、
 弁当のフタもとらねえでメシ喰っているなんてオマエ、
 女房や子供さでも知れたら泣かれるベャ!》

 ヤマに働く人たちは、自分の現場のキビシサや、危険なことなどは決して家族に話したりはしない。妻や子へ余計な心配をかけまいとするヤマの男の愛情であろう。
 ヤマの男は寡黙だ」

 と、言葉が添えられている。
 そのヤマは、もう夕張にはない。
 父は事務屋であったから日々の危険からは遠かったけれど、そうした危険と隣りあわせで働いていた人たちによって、この街は成り立っていたということを忘れまいと思う。

 温泉に浸かった後、昭和39年卒の同期会、60人余の大宴会が始まった。我が子よりも若い日本で最年少の鈴木直道市長が、一人ひとりに飲み物を注いで回っていた。
 「市長は大変だなー」と同情を覚えながら、ぜひ頑張って欲しいと、切に思った。
 宴会は2次会、3次会と続き、高校時代は言葉を交すことのなかった人とも打ち解けて写真に納まっていた。あるいは50年経っての告白も、どこかであったのかもしれない。
 翌日は、2年前に植樹した自分の桜の成長を見届けて市内ツアーに。H中学校、S小学校跡に行って校歌の刻まれた石碑の前で、その文字をなぞり卒業生は声を合わせていた。
 時代とともに学校の離合集散はあったものの、かつて小学校28、中学校11、高校8、その他2校を数えたそれぞれの校歌を合唱部OB会はCDに残している。今では全市で小・中・高が一校ずつとなってしまった。
 しかし、故郷夕張への望郷の想いとその誇りは変らない。

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