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よくあるご質問

虚妄の九州王朝(所感追記)

九州王朝説の起こりのそもそもの始まりは、国学者本居宣長の著書「馭戎慨言」の中にある、卑弥呼は九州の女酋であるとした「熊襲偽僭説」を、
踏襲し発展させた鶴峰戊申の「襲国偽僭説」により九州王朝説の下地が出来上がり、近藤芳樹、那珂通世、吉田東伍らによって引き継がれて来た。
これを古田氏は王朝にまで昇格させた。

これらは、中国の史書と、日本の史書の記事が合わない事を主要な根拠としている。
然し、中国の史書の記事は絶対正しいとは言えず、中には明らかに誤りと思われる記事は随所に見られる所で、
例えば、「隋書タイ国伝」は、「タイ国」の名前は隋書の前には全く出てこないで忽然として現れ、そして忽然として消え、以後の史書には影も形も見えない。
その上書かれていることは、その前後に書かれている倭国の内容そのままであり、別の国としてみるよりも、字が似ている倭の誤りと見るほうが極めて理に適っている。

タイ王の名前の阿毎・多利思比孤・阿輩キ彌は対外文書に書く時に使われたものかも知れず、その正否、実際はどうであったかの確認をとる術は無い。
そしてAD600年ごろには九州の豪族磐井は滅ぼされていて、確実にヤマトに政府が在ったと思われ、磐井の他に、中国と正式な外交を持った国があったとは考え難い。
また、中国の史書の誤った顕著な例として、明史に織田信長は太閤で、秀吉は太閤を僭称したと書かれているが、これらを信ずる人は先ず居ないのではなかろうか。

日本書紀は卑弥呼をヤマトの人と認識し、それを神功皇后になぞらえている。九州の人と考えると、本居宣長のように女酋となる。
邪馬台国が九州にあったと見ることは、女王国は九州一円の中にあったと見る事になるが、倭人伝後の中国の史書は、何れもヤマト朝廷の国家として書かれている。
安本氏は筑後川上流の甘木方面にあった邪馬台国が東遷したということを主張しているが、私の考えは下記の通りで、このようには思い難い。

卑弥呼は239年に遣使朝貢しており、年代が略明らかとなっている代10代崇神天皇(AD360年前後)より約120年以上前の人と言うことになる。
安本氏の研究によると、古代の天皇の在位年数は平均約10年と言うから、これを当てはめて見ると、神武天皇より2代前の事になる。

この頃の国内情勢は、戦が続いていたと想像され、政権の奪い合いにより、天皇の在位年数も10年より短かったとも思われるがそれはさておき、邪馬台国九州論者の安本氏は、神武天皇の祖先に当る天照大神が、卑弥呼であるとしている。

然し、卑弥呼は上記の通りヤマトの女王と考えられ、そうなれば安本氏の言う邪馬台国の東遷は既に終了した後となる。
そうなると神武天皇は、伊都国に居て、一大卒として女王国の玄関口を管理していたが、卑弥呼の死後、出身地の日向に戻って軍備を整え、ヤマトに攻め上って、邪馬台国を乗っ取ったとも想像できる。
これが、神武東征神話の実態で、奈良に入るまでに現地の各勢力の抵抗にあったのであろう。

九州王朝が存在したとすれば、奴国王は1世紀に中国に朝貢して、金印を仮授されており、この頃が所謂九州王朝と言えなくも無い。

従って、世上を賑わしている所謂5世紀の「倭の五王」の頃は、上記「タイ国」の不存在と合わせ、九州に王朝があったとは言えないと思う。
更に、倭王武の上表文にある、東の毛人55国、西の衆夷66国、海北の95国平定も、ヤマトを中心としてみれば、違和感無く聞こえるが、九州内に拠点があるとすると、
南には最も広いエリアがあるのに、何等触れられていないのは、奇異に感じられる。
海北に向かったのは鉄の入手のためと言う理由もつけられるが、長期間に亘って大量の軍兵を動員して本拠が空になれば、平定していない南の国から攻め込まれる
筈ではないのか。この辺は全く九州王朝論の中で考慮されていないのは不思議である。
動乱の時代に全くそぐわない話となる。

以上昨日に続き、私の考えを中心にして補足した。

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