趣味でつながる、仲間ができる、大人世代のSNS、趣味人倶楽部(しゅみーとくらぶ)

よくあるご質問

夫婦で行く海外旅行ツアー

清水義範著『夫婦で行くイタリア歴史の街々』集英社文庫、今月の新刊を読了。
 著者50代の10年間をかけてイスラムの国々を巡って『夫婦で行くイスラムの国々』(未読)に続いての、そのイタリア版。2006年9月からの南イタリア(第一部)と、3年後の09年11月からの北イタリア(第二部)を周遊するツアー参加の記録集である。
 旅好きの奥さんに引き込まれたというのが当たっているのだろう。著者は若い頃から、国内旅行でも億劫で出歩くのを避けていたというが、40代のときインドへの初の海外旅行を経験したが、それがとんでもなくハードだったという。
 《最初の3日間くらいビビリまくって、インド人が怖くて自由行動の時間にバスの中からも出なかった。それが4日目ぐらいにふと、もし自分がここに生まれていたらどうなっていたろうと考えた。ああいうインド人のように、少しインチキで、権利を大声で主張して、仕事はなるべくグズグスやるという生き方をするだろう、という考えが浮かんだのだ。(中略)すると、それからは急に旅が楽しくなってきた。見るものすべてが興味深くなって、インド人はなぜこうなんだ。それがわかってくるとめちゃめちゃ楽しい。(中略)
 この旅の終わる頃に、妻が私に言った言葉が忘れられない。顔が変わったよ、すべての悩みから解放されたような、ゆったりした顔になっている、と。あの時から私は海外旅行が好きになったのだ》と、あとがきに述懐している。
 旅行会社からの簡単な資料を読むだけで《何もわからないまま観光を始める。そして、なるべく多くのことを見ようと夢中になり、印象をため込む。後でだんだんと見たものの意味がわかってくるのが好きだ。資料を読んだりもするが、印象をひとつひとつと積み重ねていって、そこに意味を発見するのが劇的に面白いのである。それから旅行記を書くために正確なデータを集め、知っていく。だから、これを書きあげたところで、旅は完結するのである。私の旅は、そういう時間のかかる(長く楽しめる)楽しみなのだ》。
 以前に、「私の旅は帰ってきてから旅の半分が始まる」と書いたが、これと同じ発想だ。
 よくパッケージツアーを利用されているようで、短時間で実に効率よく多くの観光地を巡るメリットについても触れている。私はこれに言語障害の理由が付加されるのだが。
 南イタリアではパレルモ、タオルミーナ、シラクサ、バーリ、ナポリ、アマルフィ。北イタリアの15日間では、ミラノ、ヴェローナ、ヴィチェンツァ、ヴェネツィア、パドヴァ、フェッラーラ、ボローニャ、ラヴェンナ、サン・マリノ、ウルビーノ、フィレンツェ、ピサとサン・ジミニャーノ、シエナ、ピエンツァとモンタルチーノ、アッシジ、ローマ。
 これらの都市の中で私が読んでいて付箋をつけたのはサン・マリノ。あのシーザーが「賽は投げられた」と言って渡った、全長50kmほどの小さなルビコン川の畔にあるれっきとした独立国であるサン・マリノ共和国。小豆島の半分位の、世界で5番目に小さな国で、首都サン・マリノは標高739mの山頂にへばりつく城塞都市。人口3は万人。小学生のときに切手を集めていたのでこの国は知っていたが、世界の切手マニアの憧れの地で、国家収入の3分の1がコインや切手収入で占められ、イタリアと違って消費税もなく、世界遺産登録の観光都市。
 紀元301年、イタリア半島のアドリア海を挟んでの対岸のラブ島(イタリア語だとアルべ島、今はクロアチア領)にマリヌスと石工がいた。ローマ皇帝のディオクレティアヌスのキリスト教徒迫害から逃れ、仲間と共にイタリア半島に渡って現在の地に落ち着いた。
 それ以来、約1700年間、外敵の侵略に備えて街を要塞化して独立国を守ってきた。サン・マリノは自治都市として自由な中立国であり続けたのも、攻めようもない山頂の街、交通の要衝でもなく、豊かな農地でもなく、魅力がなかったからだという人もいるが、この国の人の独立心あってのことだろう。
 18世紀末、ナポレオンからも妖しい誘いがあったがこの提案をきっぱりと断わり、侵略意図をもつ大国の接近を許さなかった。第二次世界大戦時も中立を守り、家々の屋根に白い十字架を描いて誤爆を避けた。そこへイタリアからの戦争難民が10万人も押し寄せたが、サン・マリノの人は自宅や教会を開放して受け入れ、不足分は鉄道のトンネルの中にも難民を住まわせて住民と同じ食糧を与えて助けた。
 最近でも、ボスニヤ・ヘルツェゴヴィナからの戦争難民の子どもたちを多数受け入れていた。
 サン・マリノはそういう人道的援助を今も忘れない、平和を求める国であった。

カテゴリ:ニュース・その他

コメント

コメントはログインすると見られるようになります。