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よくあるご質問

『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』

4日前の「脈絡のない濫読記」の最後にふれた鹿島茂著『パリの異邦人』続きで、『パリの秘密』中公文庫、を読んだ。
 東京はいつもどこかでビル工事の槌音がしている永遠に普請中の都市であるのに対して、パリは数百年前の建物やオブジェが平気で残っていて、それこそ地霊(ゲニウス・ロス)がその場所にいつまでも居座り続けている、と。そんなパリのエッフェル塔やオペラ座、バスチーユ広場、壁抜け男などなど、72回にわたって東京新聞に隔週に連載された「パリの秘密」を纏めたもの。
パリっ子よりも余ほどパリについて詳しいのではないのか。

 もう一冊は、辻佐保子著『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』中公文庫、今月の新刊。
 辻邦生夫人で東大大学院美学美術史専攻博士課程修了、仏政府給費留学生、仏政府招聘研究員、帰国後は名古屋大学教授、お茶の水女子大学教授。退官後は、両大学名誉教授。美術史についての多数の執筆と翻訳書を出版されている。新潮社から『辻邦生のために』も。
 5歳違いであるが、東大の仏文科でどちらかが聴講生として教室で出逢い、邦生氏が恋に落ちたようだ。
 初めて読む佐保子氏の本に、何と愛に満ちた賢い人なのだろうという感じを抱いた。夫人の愛と賢さは背中合わせの一つのものとして存在している印象をもつ。
 片や盲目に流れがちになる「愛」に対して、「賢さ」は冷静な視座を必要とするものだから。
この本は、新潮社から刊行された辻邦生全集(全20巻)の月報のために執筆されたもので、夫人は改めて邦生氏の作品を読みなおし、二人で過ごした長い年月の執筆の折々の思い出なども胸中を過ぎる中、「たえず書く」という生命力はいったいどこから生まれ、どうやって維持できたのかを振り返っている。
客観的に、これこそ佐保子夫人あってのことだと確信する。
 《おそらく、心の奥底に潜む暗い性格や自信喪失、とりわけ創作活動が枯渇するのではないかという恐怖心を克服し、自分を鼓舞するために「たえず書く」努力を続けてきたのであろう。》
 《二人で暮らしていた間は、「たえず書く人」が日記に重要なことはすべて記録しているからと、(中略)私はただ一日を充実して過ごすだけで満ち足りており、遠い先の計画を立てたり、過去を振り返る必要をほとんど感じなかったのであろう。一人暮らしになってから、不安を鎮め、心身のバランスを保つためには、日々の思いを文字に記すのが何よりの薬であることをはじめて知った。》
 邦生氏を喪って10年を経ての切実な感慨なのだろう。
 《辻邦生にとって、ドイツ語やドイツ文学は、青春時代の信州と切り離せない魂の故郷であり、旧制高校と似てなんとなく「女人禁制」の感じが漂っていた。ドイツ的な形而上学とロマン主義の結びつきには、どこか底なしの不気味な気配を感じるため、私はこの年齢になるまで深入りするのを避けていた。しばらく前、第15章の文章を書くため、おそるおそるトーマス・マンの『ファウストゥス博士』を読んで震撼されてから、もう少しそこに流れ込んだ不可解なものに近づかなければ、辻邦生の底に隠れている巨大な氷山には迫れないと思うようになった。》
 渡辺一夫先生の媒酌によって結婚、先生は《非常勤身分だった学習院から、あらたに立教大学に仏文学科を設立して招いてくださり、その後学習院大学に移り、執筆活動が多忙になってのちも、先生の助言に従って大学で教えることを止めなかった。(中略)若いころの父の収入が不規則なためしばしば悩まされた母は、「同じお金でも、原稿料じゃなく、お給料をもらう方がはるかに嬉しい」とよく言っていた。
 小学校5年生のころ、年末ぎりぎりにようやくお金が入り、新年から家族揃って着るための新しい下着を買いに、上野の赤札堂まで母のお供をしたことがあると聞かされた。別のおりには、魚屋の前で、お財布を手にぼんやりし立っている母の姿を見て、「ぼくがお嫁さんをもらったら、決してこんな悲しい目には合わせない」と誓ったという。》
 《森有正先生は文字通り辻邦生の思索生活の導き手であった。(中略)昼食をお相伴したおり、ふと先生が「辻さん、いいですか、(老い)は昼寝をしているときなんかに、ふっとその人に取り付くんですよ」。だれしも近親者の老いに気づき、悲しむことはあるだろう。それでも、肉体や魂にひそかに忍び込む小悪魔のような(老い)に対する森先生独特の警告は、その後の私たちの暮らしのさまざまな局面で、「これがそのことなのだ」と思いあたり、そのことを素直に受け入れようという覚悟を促した。》
 これなど、最近しばしば私にも思い当たることがある。
 例によってこの日記も抜書きばかり、自分が後で読んだときに鮮明に思い出せるように。

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