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よくあるご質問

スペイン、ささやかな予習(その1)

中丸明著『スペイン5つの旅』文春文庫。奥付に0.10..8とゴム印が押され、その下に鉛筆で10.8と記されている。10年半前に求め同日に読了していた。これを再読。
 5つの旅とは、第一の旅「トレド、アランフェス、チンチョン」、第二の旅「ラ・マンチャ」、第三の旅「アンダルシア(コルドバ・セビリア・グラナダ)」、第四の旅「カタルーニャ」、第五の旅「巡礼の道」で、来週出発の旅は、1・3・4が該当。
 著者は徳間書店の編集者であったが、スペインに移住し作家となる。スペインに関係したエッセイや著作を数多く発表。私の書棚にも『スペイン・ゴヤへの旅』『絵画で読むグレコのスペイン』『絵画で読む聖書』など、12冊あった。やや下ネタ記述が気になるが、気安く読める筆致である。
 今回はカラーペン片手に読み進んだ。最初にスペイン語の発音、基本的にはローマ字読みでいい。一部独特なものもあるが、ca(カ)que(ケ)qui(キ)ja(ハ)ji(ヒ)、nの上にドイツ語ウムラウトのような点々の付いたne(ニェ)ni(ニ)nu(ニュ)やlla(リァ)llo(リョ)などなど。hと語尾のdは発音しない。
 マドリードMadridは、語尾のdは発音しないのでマドリー。ヨーロッパで一番高い所にある首都で海抜657m。内陸の高地で夏は摂氏45℃を越す日もざらで、暑いというより熱い。必ず水(アグア)を携帯することとあり、炭酸抜きはシン・ガス、覚えておこう。最初につけたカラーは「ポル・ファボール(por favor)」、英語のplease、ドイツ語のbitteと同じで便利な言葉だ。
 マドリーが歴史に登場するのは9世紀後半、イスラム教王ムハマド一世(在位852〜86)が、トレド防衛のため、現在の王宮の辺りに砦を築いた。当時はマヘリトと呼ばれていたが、1083年キリスト教徒に奪還されて、マドリトと改称。ラテン語のマトリス(水の湧くところ、水源地)が語源。
 かの天正遣欧使節団も1584年に、奥州伊達政宗に派遣された支倉常長も1614年12月20日の日記に、マドリーは「寒気烈しく、降雪最も甚しかりし」と。

「もし1日しかスペインにいられないのだったら、迷わずトレドへ行け」と言われるトレドの歴史は、紀元前から。前193年ローマ軍が侵入してローマの属都になった。その後ゲルマン族に蹴散らかされてローマ帝国が消滅し、西ゴート族の首都となったのが560年頃。ヴァレリーは「ヨーロッパはギリシャ文明(継承したローマ文明)、キリスト教、科学精神の三本柱からなる」と言ったと。
 スペインを複雑な国にしたのは、800年に亘るイスラム教徒との確執と共存であった。アラビア文明が残した影は、例えば、alで始まるほとんどの言葉がモーロの言葉。トレドに架かるアルカンタラ橋もアラビア語で「アーチ・橋」を意味する。アルコールもアラビア語だ。
 スペイン語の一割の約4万語がアラビア語語源だという。
 トレド観光に、大聖堂とサント・トメ教会に入場することになっている。この教会にはエル・グレコの「オルガス伯の埋葬」という絵がある。エル・グレコは「あのギリシャ人」と言う意味で、本名はドメニコ・テオトコプーロス。クレタ島の出身で、1577年にトレドにやってきた。偉大な芸術家ではあったが、ユダヤ人も顔負けの画商でもあり、注文主との金銭のやり取りで裁判沙汰になっていないものがないほどという。
 アランフェスというと、ホアキン・ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」がすぐ思い浮かぶ。
http://www.youtube.com/watch?v=RxwceLlaODM
 彼は十人兄弟の末っ子として1901年、東部バレンシアの小さな町に生まれ、3歳のときジフテリアに罹り視力を失う。
 才能を伸ばすためにパリのエコール・ノルマルに入学。「ギターは小さなオーケストラだ」と言ったのはベートーベンだ。

 今回マドリーからコルドバまで(444km)新幹線AVE・アベ(鳥)に乗る。
 コルドバは756〜1031年まで回教王国の人口百万人の首都で(現在は28万人)、「西方の真珠」と呼ばれた。当時40万冊の蔵書を誇る大学もあり、諸外国から学生を集めていたが、教授陣はアラビア人。ルネサンスと言うとイタリアを思うが、本家・本元・元祖・家元はコルドバだという。アラビア語に翻訳されたギリシャ語が、さらにラテン語に転訳されて西洋諸国に広がり、イタリアで花開いたのだ。

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