聖徳太子複数説

聖徳太子関連資料には史実として確実なもの無いとして、聖徳太子非実在説が登場した。
ところが、太子関連資料批判には行き過ぎがあるとして、推古朝遺文は真であるとする実在説が巻き返し、
教科書に取り入れられたことから、実在説が強くなったものの、大山誠一氏から聖徳太子虚構論が出され、実在、非実在両論が並行して論争されることになった。

虚構論は纏めると下記の通り。

書紀は法隆寺系の資料を参照しておらず、書紀編纂時(720)には法隆寺系の資料はまだ無かったと思われる。
書紀の聖徳太子薨日は2月5日であるが、これは玄奘三蔵(薨日2月5日)をモデルとして太子像を創作