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よくあるご質問

聖徳太子複数説

聖徳太子関連資料には史実として確実なもの無いとして、聖徳太子非実在説が登場した。
ところが、太子関連資料批判には行き過ぎがあるとして、推古朝遺文は真であるとする実在説が巻き返し、
教科書に取り入れられたことから、実在説が強くなったものの、大山誠一氏から聖徳太子虚構論が出され、実在、非実在両論が並行して論争されることになった。

虚構論は纏めると下記の通り。

書紀は法隆寺系の資料を参照しておらず、書紀編纂時(720)には法隆寺系の資料はまだ無かったと思われる。
書紀の聖徳太子薨日は2月5日であるが、これは玄奘三蔵(薨日2月5日)をモデルとして太子像を創作したものとする。

憲法17条は言葉が奈良時代のもので江戸時代に偽作と断定されている。
聖徳太子の作とされる「法華経」「維摩経」「勝鬢経」の注釈書の勝鬢経義疏は敦煌出土の物に近く6世紀後半の輸入品と考えられる
「法華経」は奈良時代に奉納されたという記録がある。
「維摩経」は引用される百行の書物の成立年代から、658年を下る年代の物とされる。

法隆寺系資料の聖徳太子薨日は2月22日であるが、この日は光明皇后と僧侶行信が、疫病蔓延に対処する為の法会が行われた日を起源としている。
藤原不比等、長屋王の意向を受けて道慈を述作者として、儒・佛・道の三要素を融合させて創造された人物が聖徳太子であるとするもの。

この虚構論は長屋王の祟り封じと鎮魂の為に、聖徳太子を創造したとしているが、
著者は、何故120年前の創造人物が必要なのかの説明が曖昧であるとし、
ここにA列(奈良時代)とB列(飛鳥時代)の問題と密接に関連していると推察している。
そこで、結論として、聖徳太子には飛鳥時代と奈良時代の複数の人物が投影されているとする。

憲法17条について

用語の検証からは、偽作説優位。
原文の有無に拘らず、書紀編纂段階で今日のかたちに整えられたと思われる。

この憲法は施政方針演説のようなものだから、本来ならば推古元年に制定されて然かるべきである。
それが、推古12年(604)に制定されているのは、120年後(724)は聖武天皇が即位した年で、聖武天皇を聖徳太子に投影していると推測させる。
(東大寺安録や日本霊異記に聖武天皇は聖徳太子の再誕とする文が見られる)

日本書紀は720年に「日本紀」として成立したとされるが、その後改編して「日本書紀」とされた。
この改編の時、聖武天皇を聖徳太子に擬す為に、上記の通り724年から120年繰り上げて推古12年(604)年に憲法制定の記事を置いた。
604年では多利思比孤を聖徳太子に擬している。

「薬師如来像光背銘文」の東宮聖王は聖武天皇と聖徳太子のことであることを先に示したが、
ここでも同じことが示されている。

斑鳩宮造営について

斑鳩宮造営は推古9年条(601)に記されているが、この年は神武から1蔀(1260年)に当る重要な年になる。
この時、推古天皇と聖徳太子の2者の関係が、120年後には、
元明太上天皇と元正天皇の2者(715〜721)、及び元正太上天皇と聖武天皇の2者(724〜748)、の関係に置き換え可能な関係が見て取れる。
そして又、
日本書紀(B列)601年推古9年→皇太子、斑鳩宮を興す。
120年後
続日本紀(A列)721年養老5年→天皇⇔皇太子(首皇子)体制の確立。
書紀が720年に聖徳太子に首皇子を擬して成立していたので、聖武天皇は「太子(皇太子・東宮)」という号に拘ったのかも。
書紀は、天皇(神祇祭祀)⇔皇太子(政治)体制を強調しているが、
薬師如来像光背銘文の「東宮聖王」と敏達天皇5年(576)条の「東宮聖徳」の用語とが近似していることからも示唆される。

書紀の推古天皇の崩年が120年後の元正太上天皇の崩年(天平20)と一致する。
これは単なる偶然か、又は辛酉革命を考慮した書紀の改編によるものか。
著者は奈良時代の政治史を反映して改編が行われた可能性はあると見ている。

天寿国曼荼羅繍帳については次回へ。

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