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よくあるご質問

昨日の続き、「天壽国曼荼羅繍帳」偽作説

法隆寺に隣接する中宮寺に伝わる日本最古のこの刺繍製品は、通説では、推古30年(622)聖徳太子を追慕して、妃の橘大郎女が作らせたものとされる。
然しながら、この中に書かれている暦日について、用いられている干支は、唐の時代に作られた儀鳳暦で、これは天武朝の時伝えられたもので、
推古朝には元嘉暦が使われていたから、偽作であるという説がある。

橘大郎女は聖徳太子の妃の中には無いが、聖武天皇の夫人に橘夫人(藤原不比等の夫人、県犬養三千代の孫)がいる。
元嘉暦は676年以降に使われたと思われるから、天寿国曼荼羅繍帳もそれ以降の作と考えられ、
著者は、橘夫人によって742年(天平14)頃に作製されたものと結論付けている。

但し、ここでの聖徳太子を聖武天皇とすることは出来ない。聖武天皇はまだ在位中であり、ここに書かれていることは実際に起ったことでなく、
天寿国曼荼羅繍帳にある太子の薨日2月22日が、飛鳥時代に作られたと想定される釈迦三尊像光背銘文と同じであることによっても、
推古朝に関係の有った人物によって、飛鳥時代を追想して書かれている文のように思われる。

書紀の聖徳太子の事績として書かれたものの内、
冠位十二階、中国への遣使は、多利思比孤=厩戸皇子=聖徳太子として、
憲法17条、斑鳩宮の造営は聖武天皇=聖徳太子として
奈良時代の事を飛鳥時代と関連付けて伝承させるため120年差のA列を設定して書いているとしている。

推古朝遺文としての「釈迦三尊像光背銘文」は飛鳥時代、「薬師如来像光背銘文」と「天壽国曼荼羅繍帳」は奈良時代の作と考えられるが、
「薬師」と「天壽]同じ奈良時代に作られていてもスタンスの相違が見られるが、その理由は何であろうか。

書紀は何故聖武天皇を聖徳太子に擬えたのか、他にも聖徳太子に擬す人物はいるのか、
次の法隆寺再建の謎で考えることにする。

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