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よくあるご質問

「聖徳太子と法隆寺の謎」最終回

法隆寺再建の謎を解く手掛りとして、著者は奈良時代初頭に女帝や女性の太上天皇の在位に着目した。

元明天皇の母は蘇我山田石川磨呂の女、宗我姫である。
これに対し、推古天皇の母も蘇我稲目の女、堅塩姫である。

元正天皇の同母兄軽皇子は文武天皇として即位。
これに対し、推古天皇の同母兄も用明天皇として即位。

このような書紀に於ける系譜的位置づけが、
元正天皇が推古天皇に擬せられ、
文武天皇が用明天皇に擬せられている理由と考える。

長屋王は母の御名部皇女は宗我姫の娘であり、蘇我氏に近い人物である。
長屋王の父の高市皇子は天皇の後継者に最も近いの位置に居た。

皇極2年条の分注に舒明天皇は「高市天皇」と呼称されていたと記すのは、
皇位継承で山背大兄王を退けた舒明天皇を、高市皇子と長屋王の立場に擬えているのだろうか。
長屋王は首皇子(のちの聖武天皇)を擁する藤原不比等とが対抗関係にあったこと。

奈良時代の政治的状況を推古紀に投影させ、長屋王の変が乙巳の変と同様な意味を持つことを示すものではないかと見る。

書紀は、奈良時代の聖武天皇と長屋王の対抗関係を、飛鳥時代に投影させるため、聖徳太子像を通して、
推古紀や舒明紀の記述内容に若干の加筆改編を加えたものと考える。

法隆寺東院縁起は東院伽藍について以下のように記す。

天平7年(735)皇太子が衣服や生絹を施入。(但し、阿倍内親王の立太子は天平10年)
天平8年(736)法華経の講会を行う。(藤原房前は天平9年(737)没)
天平11年(739)東院完成。(東院資材帳では上宮王院への施入品は天平9年)

いずれにしても、光明皇后の支援があった。

「薬師如来像光背銘文」は文武天皇の罹病と崩御を飛鳥時代に投影させ、
中断されていた薬師如来像造立は、神亀4年(727)、聖武天皇と光明皇后の幼太子の罹病の平癒を祈願して再開された。

東院も天然痘の退散を祈願して建立された。
又、藤原4兄弟が相次いで天然痘に斃れたのは、長屋王の怨霊によるものとして、仏教政策が進められた。

そして、後に免罪が明らかとなった長屋王を聖徳太子に擬えて、鎮魂のため藤原氏が東院に祭った。

以上をまとめると、
西院に、飛鳥時代の厩戸皇子と奈良時代の聖武天皇の両名。
東院に、飛鳥時代の厩戸皇子と奈良時代の長屋王の両名。
を祭っていることになる。

西院は、聖武天皇・藤原ラインによって、7世紀末から8世紀初頭にかけて、細々と時間をかけ、仏の加護、延命長寿を願って再建された。
西院の五重塔は、明日香にあった厩戸皇子所縁の斑鳩尼寺(旧中宮寺)から、心柱を移したと見る。
斑鳩尼寺は太子伝王林抄には法興寺と見え、法隆寺雑記には中寺・中宮寺、法名法興寺と見え、穴穂部間人皇女によって創建されたと伝わる。

旧中宮寺発掘調査での、塔の礎石心柱の柱穴の直径(78cm)は、西院の柱穴(80cm)と略同じである。
五重塔の心柱は風雨に曝された痕があるが、上記の通り西院の完成には時間がかかっており、完成に至るまで、柱形式の塔として用いられ、
和銅年間になって五層が付けられたものと見る。

三尊像の台座銘文の「尻官」を「尼官」と見れば、斑鳩尼寺から移された蓋然性は高まる。

若草伽藍焼失で失われた筈の釈迦三尊像が無傷で残っているのも、以上の事から合理的に説明が出来る。

天寿国曼荼羅繍帳についても聖徳太子に投影される長屋王の鎮魂のために作られたと理解される。

東西二つの伽藍が建てられている理由も、上記の説明に尽くされている。

聖徳太子像には両脇に童侍が随っているが、これは三尊像に関係が有ることなのであろう。

聖徳太子非実在説は、奈良時代の人物像の投影として追求すれば、必然的に虚構説として導き出されることになるだろう。

然し、太子日子(多利思比孤)の厩戸皇子として、聖徳太子は実在したと著者は見る。

書紀は、聖武天皇が皇太子であった時代に、聖武天皇と藤原氏一門の強い影響の下に成立したものであり、
編年に影響を与えている讖緯暦運説と辛酉革命説などが、聖徳太子を謎と混迷の象徴たる存在に押し上げる結果となっている。

以上(感想は次回)

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