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よくあるご質問

栄光と怨念と悲劇を身一つに秘めた持統女帝?…名歌200選(46) 素浪人の『万葉集漫談』(241話)

「怨念」というと、さしづめ夏の夜の妖怪か幽霊として妄想が広がりそうですネ。涼しくなって恰好の話題。…(笑)。

『日本書記』によると、持統女帝は落ち着きのある度量の広い人柄でした。自分の思いを深く胸に秘めて、幼なかっつた子供のころの怨念を胸に秘め、耐えて、時が来るまでその激しい復讐心は誰にも知られることがなかったようです。
645年(大化元)に生まれた彼女は649年(大化5)5歳にして、残酷で悲惨極まりない運命に晒されます。それは生涯忘れることのできぬ憎悪を彼女の胸の内に焼きつけつたようです。
祖父で孫の彼女たちを非常に可愛がってくれていた、右大臣蘇我石川麻呂が謀反の濡れ衣を着させられて、彼女が生まれ育った山田の実家に帰り建築中の寺で自害し、さらにその死体の首を刎ねられたというのです。それを見た、当時身重だった彼女のお母様、越智娘(オチノイラツメ・天智天皇の妻)は男の子を出産、ショックがひどく亡くなったというのです。
男の子、建皇子(タケルノミコ)はそうした因縁がたたったのか、生涯口のきけない弟となります。(建皇子の生年は651年説が強く、このあたりは諸説あって定かな史実は分りません。)
そして栄華を極めていた一家は忽ちに没落。幼い大田、持統の姉妹は孤児として悲しく寂しい生い立ちを強いられます。
その祖父、石川麻呂を攻めて死に追いやったのは他ならぬ、この姉妹の父親、天智天皇(当時は中大兄上皇子・ナカノオオエノオウジ)と、それを唆した藤原鎌足だったというのですから、何とも残酷な悲話です。
大化の改新を成功させるため、この石川麻呂の娘二人、越智娘、蛭娘を天智の妻に迎えて味方にとりこむなど、急進的な政治思想の天智と鎌足の二人でしたが、難波宮の孝徳天皇と保守的な政治を守る、左右大臣と意見が合わなかったようです。謀反の箴言を信じたのもそうした経緯がありました。
姉妹は、タブーとして語られることがなかったこの怖ろしい悲話のカラクリを、仕える女官や取りり巻の従者からそっと聞かされて育ったのでした。

政略結婚花盛りの時代です。天智天皇が弟の天武天皇に自分の娘大田皇女、う野讃良皇女(ウノノササラヒメ、後の持統女帝)二人姉妹を嫁として与え、交換に天武の妻額田王(ヌカタノオオキミ)とその娘を無理に貰ったのは持統女帝がまだ13歳のとき、657年(斉明3)のことでした。(異説もあります)

こうして671年(天智10)、天智天皇の病床での虚偽譲位の謀を知って、吉野へ隠棲した天武天皇(当時は大海人皇子・オオアマノオウジ)に同行したのでした。天武には男20、女10人足らずの従者しかなく、その中にぴったりと夫に寄り添う彼女の姿があったのです。
吉野で再起を図るのに最強の相談相手となったその芯の強さも、子供のころの怨念が心底にあったとする考えが正しいようにも思えます。天智崩御翌年の、壬申の乱への勝利への道は、吉野へ隠遁した日から、即刻始った「打倒天智朝戦略」からこそ生まれたということが、筋書きとして正しい気がします。(異説もあります。)

(241) 燃ゆる火も 取りて包みて 袋には
          入ると言はずや 面知るを雲
            巻2・160  持統天皇
大意・ あの燃えさかる火でも取って袋に包んで入れられると言うではないか。亡き天武天皇の御姿を知ってる雲よ、霊魂を…!という意味でしょうか。
解説・ 原文の万葉仮名では第5句、「面智男雲」とあって、訓義定かでないのですが686年、天武天皇が亡くなったとき詠まれた持統天皇の深い悲しみの長歌に続く短歌です。
天武天皇と何事も2人3脚で事業を成し遂げてきた強い思い入れが感じられる歌です。
そして、天武崩御後1ケ月もたたぬうちに、愛息、草壁皇子の政敵で恋敵の大津皇子を捕らえ即時、死を賜った経緯も、このような持統女帝の育ってきた暗く残酷な道のりが背景にあったことを知る時、頷ける気もします。

「春過ぎて夏来るらし白たへの…」と、あの素晴らしい感性に富む明るい歌を詠んだ持統女帝は、彼女の施政面で、天武の政治を次々と実施し、そのプロセスの中で、器の大きな男勝りの女性であったことを如実に示していきます。
 いや、日記文にしては文章が少し硬くなり過ぎたようですね…(苦笑)。

カテゴリ:ニュース・その他

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