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よくあるご質問

7、ベラスケスの動く絵

マルガリータ王女が生まれたとき、ベラスケスは52歳であった。1660年、彼が61歳で亡くなるまでの9年間に何枚ものマルガリータ像を描いているが、そのうちの3枚がウィーンの美術史美術館に展示されているという。ウィーンに再び行きたいと思っているうちの何割かは音楽もさることながら、この美術史美術館に行きたいと思っているからだ。
 オーストリア、ドイツ、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダの各地のハプスブルク家の領土の400年に亘る美術コレクションを中心に、古代から19世紀までの美術品を収蔵していて、歴史書に登場するハプスブルク家歴代の肖像原画を見ることができるのだろう。
 マルガリータの絵は着ている服の色によって《白い服の王女マルガリータ》、《バラ色の、青色の〜》と呼ばれていて、三枚ともウィーンの神聖ローマ帝国皇帝レオポルド一世に贈られた「見合い写真」であり、11歳のとき正式に婚約が整って1666年春、15歳でウィーンに嫁いだ。ウィーンでの結婚の祝典は3ヶ月間続き、そのとき馬のバレエが上演されたというが、スペイン原産のリビッツィア種の白馬12頭が音楽にあわせて踊り、遠くに嫁いだマルガリータを慰めたという。
 ウィーンでは今でも日曜日にスペイン馬術学校による馬の演技が観光客に公開されており、NHKのBS放送で見たことがある。
 マルガリータの結婚生活は幸せだったが、子どもには恵まれなかった。嫁いで間もなく男の子を産んだが三ヶ月半ばで亡くしている。その後も早産、死産を繰り返し、無事に育ったのはマリア・アントニアだけであった。マルガリータは22歳を迎えずして、喉に痰を詰まらせて亡くなり、そして彼女の孫が、やがてスペイン王位継承戦争に担ぎ出されることになるのだが・・・・。

 ベラスケスは1599年にセビリアで生まれ、後に岳父になる画家兼著述家に師事したが、当時から個性的で異彩を放つ存在であったという。1622年にマドリーに出て間もなく宮廷画家として召抱えられ、立場上、数多くの肖像画を描くこととなる。その後フェリペ4世の私室取次係に任命され、宮廷の仲間入りをした。
 これ以降は、王室の邸宅及び宮廷警吏(1633)、翌年に衣装係補佐、王室特別工事監督官及び侍従代(1643)、宮廷配室長(1652)となり、多忙となって絵画制作の時間を奪われることにもなったが、貴族としてのステータスは絵画そのもの、また 画家の社会的地位の向上をもたらすことにもなった。
 《ラス・メニーナス》に描いている自身の社会的地位を暗示する胸のサンティアゴ騎士団の紋章や、配室長の鍵を身に着けていることでも彼の自負が窺い知れる。

 その後、K子さんは「ベラスケスの動く絵をご覧に入れましょう」と、《皇太子バルタサール・カルロス騎馬像》に案内した。細長い大広間の西側の壁には先代王フェリペ3世とその王妃の騎馬像が掲げられ、その反対側には当代フェリペ4世と妻イザベルの騎馬像があった。この両者の中間にある扉の上に《皇太子バルタサール・カルロス騎馬像》は掲げられていたのであった。だからこの絵は下から見上げることを前提に、そのことを配慮した比率で描かれている。
 正面から見ると、ビヤ樽のような不恰好な馬に見えるのもそうした事情からであった。
「こちらの端から皇子の目だけを見て壁沿いにずっと歩いてきてください。皇子の目がずっと付いてきます。あなたをずっと見ています」。そして反対の端の方へ来て、
 「馬を見てください」。「ええっ!」。
 向こうで見たときは馬の首の向きは左であったのに、こちらでは馬は右の方を向いている。どういうことなのか。
 理知的なベラスケスは王室邸宅の特別工事監督官でもあったから、大広間の設計から絵画の内容や描く技法、掲げる場所と視線の角度まで計算しつくして描いていたのだった。
 描かれている皇太子バルタサール・カルロスは、マルガリータの腹違いの兄である。

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