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連載:我が家の履歴から

第21回 我が家の履歴から21.父の交友関係の中には

父は、前にも触れたように、社交家ではなかった。と言っても、気難しい孤独な学者ではさらさらなかった。円満な温厚な人柄だった。もちろん研究者としての厳しい側面もあったけれども。

 父は法医学者だったから、その交友には、医学者・医師が多いのは当然だろう。父は大正5年に東京帝大医科大学を卒業している。後年は「大五医師会」の幹事役を勤めてもいた。父にとっては、法医学・血清学の恩師三田定則先生のことは生涯にわたって尊敬して止まなかった。「親鸞を科学者にしたような方」と称していた。その他、生理学の永井潜先生をはじめ、随分たくさんの恩師・先輩の先生方に可愛がっていただいたりしたものだ。
 父自身の法医学教室からは、随分たくさんの門下生が輩出している。専門の法医学者になる人は少なかったけれども、父の下で医学博士になった人は極めて多い。父は熊南と号していたが、門下生たちは「熊南会」を組織し「熊南の集い」を発行してもいる。二度にわたる学士院賞受賞者で、父の後を承けて、科警研所長も務めた井関尚栄先生、下山事件の時の解剖執刀者桑島直樹先生(後・横浜市立大学長)、国立遺伝学研究所長なども務められた松永英先生などは殊に有名だ。著名なデザイナー森英恵さんの兄君は、父の嘱望していた東大出身の若手法医だったが、戦死したのは、父にとっても極めて残念なことだった。
 父は、わが国の人類遺伝学会と犯罪学会の創設者でもあった。だから、遺伝学・人類遺伝学や犯罪学関係の学者とも交友関係にあった。
  それから、法医学の学問的性格からして、法曹界の有識者とも交友関係にあった。

 そういう方々とは交友関係にあっても、別に不思議ではない。 だが、不思議なことに、文学者・文士の何人かとは親しい間柄であった。

 まず、京都の三高時代の先輩で親友になった小酒井不木(本名・光次)との関係は極めて深いものがあった。父は、不木を敬愛してやまなかった。父は当初京都帝大医学部に進学するつもりだったが、不木の強い勧めで東京帝大医学部に進学したのだった。
 不木は非常な秀才だった。だが、宿痾のため、ついに決まっていた東北帝大医学部には赴任することなく、その職を辞した。探偵小説に身を投ずるに至るのである。不木は、ドイツ留学中の父に対して、欧米の探偵小説に、これはというものがあれば送って欲しいと依頼する。それに応じて、ドイツ語版の探偵小説を送っている。その中には、スエーデンの作家ドゥーゼの作品もあり、語学の達人でもあった不木は『スミルノ博士の日記』「夜の冒険』などを翻訳し、出版してもいる。
 父は金沢医大法医学教授時代に、「金沢犯罪学会」を創設する。そして、その機関誌「金沢犯罪学雑誌」を創刊した。父は小酒井不木を編集人の一人に委嘱した。不木も欣然としてそれに応じた。父は不木の活躍を期待したのだった。
 だが、不木はそれには殆ど応えることが出来ずに、1929年夭折した。父は悲嘆に暮れた。
 不木の死を悼んで、『小酒井不木全集』が改造社から公刊される。それは結局17巻にも及ぶものとなった。
 なお、父はこれも不木の強い勧めで、一篇だけではあるが、探偵小説を書いた。「指紋」と題するものである。「探偵文藝」1926年第2巻5号。ドイツ留学時代の実際の経験を基にしたものである。それはなんと『探偵文藝傑作選』の中に採録されている。光文社、2001年2月刊。執筆から75年後の事である。

 江戸川乱歩が『二銭銅貨』を書き、「新青年」に投稿した時、編集長森下雨村は不木に、その作品の評価を依頼した。不木はそれを激賞した。不木と森下雨村が乱歩を世に出したのであった。
それ以来、乱歩の大活躍が怒涛のように始まるのである。乱歩は不木に深く兄事する。父が乱歩と直に会ったのは1929年、不木の葬儀の時であった。兄事する不木の死は、乱歩にとってもショックであった。
 それ以来、乱歩は、不木の親友である父を大事にするのであった。
 軍国主義化していくにしたがって、乱歩はその筆を折るようになる。だが研鑽を積んでいた。
 戦後、乱歩は再び活動を開始する。「探偵作家クラブ」を組織し、その初代会長にもなる。と同時に、父にはその顧問第1号を委嘱するのであった。
 父は、乱歩の『幻影城』の学究的であるのを称賛し、父の創設にかかわる「日本犯罪学会」の機関誌「犯罪学雑誌」の編集委員を委嘱する。作家が学会誌の編集委員になるなどは、異例であろう。だが、父は敢えて委嘱したのであった。父は乱歩の死を悼む哀悼の文章も書いている。(後に続く)

カテゴリ:日常・住まい

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