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よくあるご質問

落穂

※罪をもっていない者がいるのなら石を投げたらよい。

最初に聖書を開きましょう。「あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。」(詩篇90・8)別の箇所には、神様にはなにも隠せないというようなことも書かれています。信仰をもっということ、つまりクリスチャンになるということであります。それはどういうことか考えてみましょう。神様の前に、自分の汚さ、不義、隠し事というものをさらけ出している人、それがクリスチャンであります。世の中、信仰のない世界では、悪事そのものが悪いのですが、その罪を隠すということで、二重に罪が重なってきます。自分の罪を隠して、人の前で良い格好をして、何も自分には悪いことがないような顔をして生きていることは、決して良いことではありません。神様の前でも率直でないということも悪いわけです。信仰なしで生きていて、平安がないのはむしろ当然だと思います。自分の心が本当に安まることがないはずです。教会に来て、「悔い改めよ」ということばを聞くと、はじめての人はあまりうれしく感じないようであります。しかし何も人前で悔い改めなさいといわれるのではなく、神の前に私達の不義と秘め事をさらけ出しなさいということなのです。神様の前に自分の醜さを正直にさらけ出しますと、いろいろなすばらしいことが人生に起こってきます。その中の一つは、そういうことを正直にしている人は、他人のことが気にならなくなってくるのです。この世のトラブルの多くの原因は、人のことが気になるということからはじまるのです。人を意識しすぎるというか、人を悪く見たりして、すぐ批判してしまう。それは実は、私達の心の大きな負担であり、自分を苦しくしているのです。もしあなたが人にどう思われるかなど、まったく気にならないで、自分の道を信仰をもって進めたら、なんと気が楽で感謝なことでしょう。聖書の中に出てくるお話の中に、姦淫の現場を捕らえられた惨めな女が引っ張られて来た時のお話があります。その当時のモーセの律法では、こういう不義をした者は、石で打ち殺せというような厳しいものでした。そこで、手に石をもった人びとが、その女をイエス様ならどうするだろうかと聞いたのです。イエス様は、即答はなさらなかったのですが、彼らが問い続けるので、やがて彼等に向かって、こう言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)するといままで勢いよく彼女を訴えていた者たちが、みな黙ってしまって、石を落とし、だれも石を投げることができず、立ち去って行ったのです。私達が人のことを気にして、人を裁いて罰してやりたいというような高ぶった思いをもつのは、自分の心を神様の前にさらけ出していない証拠です。だから、「あなたがたの中で罪をもっていない者がいたら、その人はそうしたら良い」と、イエスが言われた時、みな自分の心をイエス・キリストのおことばの光に照らされたのです。そして自分を見ると、自分も同じように罪多汚い人間ではないかと気がつくのであります。自分が罪人(つみびと)だと気付いたとき、たとえそこに罪人がいても、人を責めることができないのです。ましてその人を裁くことができなくなるのであります。聖書に、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3・24)と続き、私達罪人の救いは、イエス・キリストをとおして備えられていることを示してくれています。何と感謝ではありませんか。まことに自分の心の汚さを神の光に照らしていただける人は幸いです。そして汚い自分を認めている人は幸いであります。そして汚い自分を認めて人を責めることをしないで、自らの救いを、イエス・キリストに求める者となると、正直、負担のない明るい心で、気持ちよく毎日を送ることができます。あなたも、イエス・キリストにあって、そうなってください。万代君恵:牧師

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