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よくあるご質問

連載:我が家の履歴から

父の故郷を訪ねて:我が家の履歴から(番外編)

またしばらく日記をお休みしてしまった。どうしてか。
 かねて懸案だった父の生まれ故郷を漸く訪ねることが実現できたからである。
 この「コラム」の「連載」は24回までと言う。「我が家の履歴から」は、疾うに24回に達してしまっている。だが、今から書こうとすることは、まさに我が家のルーツに関わることである。そこで、敢えて「番外編」とするものである。
 今年1月22日の日記は「我が家の履歴から2.家族の構成、祖父母と父母、三代にわたる交流」と題するものだった。それと幾分かは重なる部分があるかもしれない。予めお断りする次第だ。

 その頃は、父親のことも、F.T.としか記さずにおいた。自分の名前はニックネーム(wakoh)だのに、父親を本名で記すとはアンバランスでもあろう。ネット上での諸問題もあろう。だから、T.F.としておいたのだった。だが、wakohはともかく、父は公人であった。死去後40年経ったとは申せ、今なお取り上げられることもある。しかも、遺族が沈黙を守っているのをいいことに、でたらめ千万な勝手なことを言う輩も横行している。wakohが真実を表明しなければ、一部では、誤った虚像が罷り通る恐れもなしとはしない。かつて、父のある有名な高弟は「wakohさん、そんなのはうっちゃっておきなさい。そんな泡沫はいずれ消えていきますよ」と仰せられたことがあった。確かに、あまりにもでたらめな言いたい放題だ。だがwakohも高齢のがん患者だ。何時、天に召されるとも定かではない。
 そこで、本名で登場させる決断をした。父の本名は、古畑種基と言う。熊南(ゆうなん)と号する。その号は、単純明快だ。自らの出自を、熊野の南とし、それを名乗っていた。終生変わることがなかった。それだけ、生まれ故郷を愛していたのであろう。

 父は、明治24年(1891年)6月15日、三重県南牟婁郡相野谷村(現・紀宝町)平尾井で生まれた。
その父・虎之助、その母・寿(じゅう)の次男としてだった。長男は夭折したので、事実上長男のようなものだった。
(wakohからすれば)祖父・虎之助は、明治の早い時期に、和歌山市に出て、和歌山医学校で医学を学んだ。その先生の中には、有吉佐和子の『華岡青洲の妻』で広く知れ渡っている青洲先生の子の華岡随賢先生もいる。当時は明治の初年のことだから、医学を学ぶにも印刷した本を手に入れることは難しく、大抵は自ら毛筆で写したらしい。父は、祖父の診療室兼用の書斎に、祖父自らが筆写した医学書がずらりと並んでいるのを見ていたそうだ。故郷に戻るとともに、古畑医院を開業した祖父は、村医となった。また村長となった。恒産に恵まれた庄屋でもあった。村人たちからは亜父と敬愛される存在だったという。

 高名な作家・詩人の佐藤春夫の父親、佐藤熊太郎は新宮の出身で、祖父とは和歌山医学校の同級生だった。新宮で大きな医院を開業した。佐藤春夫と父・古畑種基とは中年以降親しい間柄となるのだが、今はそれには触れない。
 佐藤春夫と元谷崎潤一郎夫人だった千代夫人との間の、一粒種佐藤方哉は慶應義塾大学心理学教授から帝京大学心理学科教授となり、wakohは東大社会心理学教授から、同じく帝京大学教授となり、教育学科から心理学科に配置替えとなったので、同じ学科の同僚となり、ここに三代にわたる交流という珍しい関係が生じたのだった。が、その佐藤先生は、全く痛ましいことに、数年前新宿駅京王線プラットホームで、人に押されてホームと電車の間に挟まれ、逝去されるという大変悲惨な事故があったのは残念でならない。また、少し脱線してしまった。

 こんな調子で書いていたら、何時まで経っても、今回の父の出生地、生まれ故郷への訪問には至らないだろう。
 だから、今はただ超ド級のスピードで、何故今頃になって初めてその訪問が実現したかを記すことにしよう。

 父は、明治30年平尾井にあった明成尋常小学校に入学した。しかし、明治33年、和歌山市の広瀬尋常高等小学校に転校した。郷土で育ったのは、だから9歳まででしかなかった。どうしてか。当時は旧制中学校への入学資格の貰える高等小学校は新宮にしかなかった。新宮には、今回実際に行ってはっきりと判ったのだが、平尾井から新宮までは10キロもある。新宮に下宿させるなら、和歌山市の、教育熱心な叔父桑原虎太郎(母・寿の弟)の下に寄留させた方が、上級学校への進学に好都合だろうと、父虎之助は判断したのであったらしい。(これらはいずれも種基から観ての父母や叔父であり、wakohからすれば、当然祖父母、大叔父と言うことになるのだが)
 明治37年県立和歌山中学校に入学。その卒業後は、京都の第三高等学校の三部(医学進学コース、現京都大学)に入学。明治45年、三高を卒業。東京帝国大学医学部に進学。実は、それには三高で出逢った先輩にして親友の小酒井不木の強い勧誘があった。(大秀才として名の轟いていた不木は、宿痾のため、東北帝大に赴任することなく、探偵小説に投じ、その先駆者として、江戸川乱歩を発掘する。それ以来不木に兄事していた乱歩は、昭和4年不木の長逝の葬儀の時、父と出会い、それ以来乱歩は不木の代わりに父に兄事するに至るのである。)
 父には開業医として郷土や村人のために尽くすという使命感もあったものの、不木の勧めにより、法医学の三田定則先生に出会い、先生に心酔。学究の道を選ぶことを決定づけた。
 父の恩師三田先生に対する尊敬・傾倒は尋常ではなかった。また叔父桑原虎太郎への敬愛の念も生涯を通じて変わることがなかった。
 父は東京帝大医学部卒業後、医学部法医学教室の助手に任命された。折から全国の国立医専を医学教育向上のため、医科大学に昇格させることとなり、父は金沢医大法医学教授候補者として独・英・米に留学することとなった。そこでも懸命に研鑽に励んだ。
 当時は第一次世界大戦の直後で、ドイツは大変なインフレに見舞われ苦しんでいた。だから、日本からの文部省派遣の留学生でも、一時的に成金となり、遊興を楽しんだ人もいると聞く。だが、父は祖父が売った一つの山の代金五千円を、小遣いとして与えられていたので、たいそう裕福だったらしい。そのすべてを研究用の文献や機械器具の購入などにあてたのだという。だが、帰国に先立ち送ったそれらの宝の山は横浜の三井の倉庫で関東大震災に遭い、すべて焼失してしまったのだという。だが、父はそのことを一言も恨んだり、悔しがったりしたことはなかったとは、母から何度も聴かされていることである。

 父は留学からの帰国後、大正13年金沢医大初代法医学教授に迎えられた。そこでの、裁判所からの親子鑑定の依頼が契機となり、血液型の遺伝法則に着目、研究を開始。そして、遂にそれまで信じられていた遺伝法則ではなく、ABO式血液型の新遺伝法則を発見。国内では、有力な遺伝学者、法医学者からの激しい反論を受けた。だが、昭和2年(1927年)オランダ・アムステルダムでの第3回国際人類学会と、ドイツ・ベルリンでの第5回国際遺伝学会での発表により、多大な反響を博し、世界的に認められるに至ったのであった。
 wakohが以前「噫・偉人アムンゼン」と記した日記は、この国際会議に出席の途上での不思議とも言える出会いであった。

 父は、昭和11年(1936年)東京帝大医学部法医学教授に就任。生涯を通じての研究テーマとなった「血液型の研究」により、昭和15年にはドイツ自然科学者学士院会員に推挙されたのをはじめ、各国の学会の名誉会員に次々と推挙されていく。昭和18年、帝国学士院恩賜賞。21年には、野間学術賞を受賞。昭和22年には、医学では最年少の日本学士院会員。また、昭和31年文化勲章を受章。(その時一緒の受章者の中には、大先輩の、言語学者『広辞苑』の編者新村出先生、作曲家・音楽芸術の山田耕作先生、八木アンテナの八木秀次先生などもおられる。)
 父は、こうして純粋な、学問としての「血液型学」の樹立のために渾身の力を振るっていたが、その一方、法医学の学問的性格からして、現実の実際の社会的難事件にも深く関わっていかざるを得なかった。一般にもよく知られているものとしては、昭和23年1月26日に起こった「帝銀事件」では、その直後に最初の検死・鑑定を行ったことなども挙げられよう。青酸カリによるものであろうとの鑑定だった。(その日の夜行で神戸に出張する、直前の緊急の依頼であった。)
 だが、その時の大変さは、その後昭和24年7月5日に起こった「下山事件」に比すれば、もののかずではなかった。何時間もかけての綿密な解剖の結果に基づく「死後轢断」との鑑定は、その後決して揺らぐことがなかった。普通には、轢死は、殆どが「自殺」によるものであろうが。この問題は、その後折に触れて蒸し返され、父の死後にもなお、大々的に取り上げられることがあるのは周知のとおりである。(高校3年生で受験生のwakohにとっては、大いにその勉強が阻害された事件だったが)

 昭和25年の朝日新聞厚生文化事業団の事業としての中尊寺の「藤原4代」の学術調査において、800年も前のミイラ化した遺体から、指紋や血液型の検出に成功したことなども、一般に知られていよう。

 東京大学教授退官後は東京医科歯科大学教授に就任。総合法医学研究施設のために獅子奮迅の努力をしていた。
 その一方で、構想力の豊かな学者として、狭い専門分野に閉じこもるだけではなく、「日本犯罪学会」を興し、また「日本人類遺伝学会」を創設したりもした。無私の努力だった。
 東京医科歯科大学を退官するや、三顧の礼をもって警察庁科学警察研究所長に迎え入れられた。その時の警察庁長官は後藤田正晴氏であった。それまでは、警察庁の局長ポストのひとつとして法学部出身の高級官僚が所長になっていたのを、世界的に認められるような研究所に引き上げるべく,最後の尽力をしていた。事実、その成果の一端は、例えば、有名な推理小説作家ガードナーの「美しい乞食」での長文の父に対する献辞からも読み取られるであろう。

 札幌医大和田寿郎教授による、心臓移植が発端となり、当時のワンマン日本医師会会長武見太郎の懇請を受けて、父は「臓器移植懇談会」の座長に就任した。難しい舵取り役だった。その中間答申が、1971年12月25日厚生省で開催された。その新聞記者会見の最中に、それまで80歳とは思えぬ元気さで働いていた父が、突然の発作に襲われた。脳血栓の診断だった。(その場には、虎の門病院長冲永重雄東大名誉教授、大脳生理学者時実利彦東大医学部教授も委員としておられた。)
以来、何度も死線を彷徨った。それから3年4カ月に及ぶ苦しい闘病生活だった。不思議に持ち直したりしながらも、1975年5月3日「色鉛筆をもってきてください。赤と、青と、黒と、白と、黄色の…」の言葉を最後に昏睡に陥った。そして1975年5月6日に死去した。83歳だった。

 こうして、父は80歳まで、元気に働いていた。常に忙しかった。
 だから、生まれ故郷には、愛着はあってもなかなか容易には訪れることが出来なかった。
1956年、文化勲章を受章するや、故郷では、それを顕彰しようとの声が巻き起こった。そして地元の有志の方々によって、顕彰の記念碑が建てられたのであった。その時、その除幕式には、父は母とともに赴いた。
 父が、母とともに故郷に帰ったその最後は、1970年だった。その時もまた、故郷の方々は大々的に歓待してくださった。父も講演などもしたはずだ。

 1991年6月15日は、ちょうど父の生誕100周年の時にあたった。紀宝町では、遺族に声をおかけくださった。wakohの兄、姉妹、甥など6人が参列した。
 けれども、wakohには、事前には殆ど連絡がないままだった。あるいは、四男だったからかもしれないが。それに、東大定年退官を前にして、いろいろなことに忙殺されてもいた。殊に教え子の研究者たちの博士論文の審査のためにもてる時間を殆ど費やしてもいた。それ故に、大変残念だったが、参加することは叶わなかった。
 だが、そのことはずっと気になり続けていた。

 何時かは父の郷里に是非とも行ってみたいと念願していた。けれども、帝京大学では、76歳になるまでずっと現役の教員を務めていた。やっと退職して時間ができるようになったと思ったら、今度は予想もしなかった癌が発見された。それも進行がんだった。その手術後6年有余、何とかある程度は元気になった。
 ところが、いざ行こうと準備しているうちに、紀宝町が台風に襲われ、水害に遭って、断念せざるを得なくなったりもした。

 だが、遂に時は至った。今年4月、紀宝町は、その広報誌『きほう』に、特集「郷土の偉人、血液型学の国際的大家 医学博士古畑種基」を数ページにわたって組んだ。それに応えて、wakohは改めて計画を立てた。家内と3人の子どもと2人の孫娘と、それぞれが勤めを休暇を取ることが出来、総勢7人が揃った。こうして遂に父の故郷訪問は実現に至ったのであった。


 10月23日、早朝4時45分には家を出た。東海道新幹線の東京始発の一番最初の列車に乗った。名古屋で乗り換え。新宮に着いたのは、11時35分くらいだったか。
 新宮駅には、父の生まれた紀宝町平尾井区の前区長戸地功氏が出迎えてくださっていた。息子がかねて予約してあった大型レンタカーを借り出し、まず戸地さんにご案内戴いて、熊野速玉大社に。
 この大社には、皇室の後白河法皇をはじめ、幾多の上皇などが繰り返し参詣しておられる由緒ある熊野三山の一つだ。wakohも新宮までは、2度来ており、その都度参詣してはいた。だが親族7人でと言うのは初めてだった。そのすぐ隣には、「佐藤春夫記念館」もあったが、時間の関係で、それは外からの見学に留めた。だが、佐藤春夫と父との交流のことも、孫たちも知り、大いに関心を高めたようだった。

 その後、紀宝町の町役場に案内していただく。教育長など、何人かの方々と挨拶を交わす。かねて用意してくださってあったたくさんの資料なども頂戴する。
 ついで、父が小学校時代に学んだ、相野谷明成尋常小学校が移転した相野谷小学校へ。そこには、かつて父が寄贈した「古畑文庫」などもあった。高齢化社会の影響で、児童数も減っているようなのは残念だが、事実だった。
 それから「ふるさと資料館」へ。そこには、父の業績がたくさんの写真入りで、紹介されていた。感激してしまった。

 一つのハイライトは、やはり父の文化勲章受賞を記念して建立された顕彰碑を目の当たりにできたことであったろう。区長さんの説明を伺いながら、感動を新たにした。もう48年以上経っているというのに、今なお平尾井区の方々は月に一度は4人ずつ交代で清掃してくださっておられるとのことだった。記念撮影もした。

 ついで、祖父の「古畑医院」跡へ。かつての家屋敷ももちろんない。石垣が微かにその名残をとどめていた。いくつもあったという山林も、祖父が保証人となっていたために、事業に失敗した人のために、山林なども人手に渡ってしまっていたらしい。その辺の事情を知る人はもはや誰一人としていない。しかし、そこに集まってくださった方からは、父母が来訪の節一緒に撮った写真や、昭和39年の父からの年賀状などを、大切に保存してるのをもってきてくださった方などもおられた。
 83歳と仰る老婆の方は、その母親が金沢の古畑家で女中をしていた際、雪かきをしていたら、父がぬくぬくの着物をかけてくれたという逸話を語ってくださったのも感動的だった。(古畑家では、金沢でも、東京の下落合でも、女中さんは代々熊野の方々が来ていたのであった。)

 平安時代、白河法皇が熊野御幸に訪れた際、勅願して建立したと伝わる「平尾井薬師」に案内された。そこでは、16人の住民の方々が揃いの着物姿で、「平尾井踊り」を披露してくださった。23曲もあるというもののうちの5曲だった。恐縮のほかなかった。息子や孫娘なども、その踊りの輪に入れていただいた部分もあった。それは親近感を高めることに役立ったかもしれない。
 父はその寺の鉦を寄贈したとのことで、その銘まで見せていただいた。

 こうして、大変な歓待に与ってしまった。自分たちだけでは、新宮から先、一体どうしてよいか分からないのに、きっちりとスケジュールを立てて、準備していてくださったのであった。
 しかも前区長の戸地さんと現区長の奥峪さんは、新宮の「ウミガメ公園」までご案内くださった。戸地さんからは、また貴重な資料をたくさん頂戴した。

 そんな次第で、感激・感動の1日だった。息子の運転するレンタカーで、那須勝浦の「国民休暇村」に至り、温泉で疲れを癒し、海鮮料理を楽しんだ。7人での道中も滅多にない機会だった。
 これも、亡き父の遺徳の故であるのだろうか。このおもてなしに対して、返礼などできないが、それでも心ばかりの感謝の意を表したいし、また「ふるさと納税」なども別途しようと思ったことでもあった。

 なお、複数の新聞記者の方も見えていた。署名入りの記事の、写真入りの掲載紙を早速お届けくださった新聞社もある。またインターネットで、オンラインで、写真入りの記事が読めた新聞もあった。そういう配慮までしていてくださったのであろう。感謝である。

最後に、3枚の写真について
・左:古畑種基文化勲章受章記念碑とその教育委員会による解説を前にして
・中 :ふるさと資料館の古畑種基コーナーの一部
・右:平尾井薬師の境内での「平尾井踊り」孫娘も輪に加わって

カテゴリ:ニュース・その他

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