秦氏は漢氏に比べて桁違いに巨大な集団であるが、それだけに謎も多い。
「新撰姓氏録」によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされる。
然し、その氏族伝承は詳らかではなく、出自について様々な説が出されている。
●曰く、秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫とする説。
●聖徳太子に仕えた秦河勝が新羅仏教系統を信奉していたことから新羅系渡来氏族とする説。
●「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、百済系渡来氏族とする説。
●五胡十六国時代に羌族が興した後秦に由来する、●又は氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族の系統とする説。
などのほか、平安京が十字路で構成されているために景教と関連があるから、
●景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする説もある。
また、秦を「ハタ」或いは「ハダ」と訓むわけも、「海」の朝鮮語「パダ」に関連付ける説、
韓国(からくに)語のハダ(波陀)と読むとする説、機織りと関連付ける説などがある。
(なお、「陀」は、「タ」、「ダ」二通りの読み方がある。)
いずれも推測の域を出ない。
「新撰姓氏録」では弓月君が120県又は127県の民を引き連れて日本に帰化したとするが、
120県の民の総数がどれくらいかははっきりしないが、応神期に大規模の集団が一度に渡来できたかは甚だ疑問であり、
それは、弘仁6年(815)の姓氏録の編纂の時代の秦氏の様相が、大集団を為していたことを説明するための付会であるとするのが妥当のようである。
秦氏は養蚕、機織、土木などに技術者として大いに働いたのであるが、高級官僚は輩出していない。
機織りは調(ミツキ)として課された貢納のための実用品に限られており、高級絹織物(錦織など)は漢人が担当していた。
調は全国一円に課されたから、それに従事する人々も全国的に広がっており、
それらの人々が秦氏という擬制的集団として総称されたため、秦氏が巨大集団となるに至ったと思われる。
6世紀後半の欽明期の戸籍登録では秦人の総数が7,053戸、姓氏録では18,670人となっていて、他の氏より圧倒的に多い。
秦氏の下部集団として秦人があり、それに介在する「勝(マサ)」姓が多く見られ、
勝姓氏族は秦人のミツキ貢進を管掌していたと見られる。
秦氏は、蔵の管理、治水・灌漑事業、造宮事業、鉱業(水銀・銅)、製塩、など多くの事業に関わっていた。
京都葛野川(現桂川)の北岸の太秦地域に6世紀ごろ造られた数基の古墳があり、ここが秦氏の本拠であることから、
最後に作られた蛇塚古墳の被葬者は、聖徳太子の側近で秦氏の首長であったという秦河勝であるとの説もある。
葛野川の大堰(渡月橋あたり)を築造したのは、秦氏と言われているが、堰堤を築造するのには多数の人員を必要とし、秦氏にその動員力があったことを示す。
大土木工事としては、この他に河内の「茨田(まんだ)の堤」、山城国の「栗隈大溝(くりくまのおおうなて)」があり、付近には氏人の居住地があった。
秦氏にも漢氏と同じような「腹」があり、葛野郡川辺郷には「川辺腹」として秦忌寸の一族が居住していた。
秦氏の場合は「腹」は漢人のような親族集団を示す区分ではなく、居住地や職掌ごとのまとまりとしての二次的な組織形態であった。
例えば造宮事業に従事する工人も百済系、新羅系などが混在し、氏族的秩序が未整備で、族長の地位も変動的であった。
各氏族の自立性も高く、強力な統制体制はなく、まとまった政治行動に出ることがなく、従って政治的に活動した記録はない。
そして、その首長も家格として決まってはおらず、その時点での実力者が首長として祭り上げられたようである。
即ち、山背国に秦忌寸姓の氏人の分布が多く、葛野郡と紀伊郡の二郡に分かれて集住していて、山背秦氏の中心勢力となっていたが、
その両者の実力者が交替で首長の地位についていたと思われる。
それは、首長であった秦河勝とその祖父(または父)に相当する族長の秦大津父(おおつち)とは、系譜的につながる伝承がなく、
別系統のグループに属していたと看做さざるを得ない。
「新撰姓氏録」には、山城国の秦忌寸に関する記述が詳細で、族長の地位にあった可能性が高いと思われるが、
秦氏の下位層にあって造宮省の下級官吏の四等官で無姓の「秦下嶋麻呂」が、山背国の恭仁京の垣の築造で功があったとして、
太秦公(うずまさのきみ、ウズ:尊・貴、マサ:勝=族長を意味する)の姓を賜ったことから、
河勝に代わり、秦氏を代表する宗家的な地位に就いた。
秦氏の旧姓は造(みやつこ)で、連を経て天武朝には忌寸(のちに佳字の伊美吉)姓となり、さらに一部のものは宿禰姓となったが、
氏族の名称は、本来ウジを頭に置き、そのあとに姓が付されるのに対し、ウジを下に付するなど、表記がバラバラで一貫性がない。
このことからも氏としての強固な同族意識が弱く、氏族の求心力が強くないことが窺える。
それが、巨大組織ながら政治権力に結び付くことなく、職人的な技術集団として誇りをもって生きてきたように思える。
また、技術のみでなく、宮中の雑事や子供の世話などに従事したり、
要人の警護に当たる「東方のし従者(あずまのしとべ)」とよぶ健人(ちからびと):屈強の従者」の動員にも携わっていた。
推古朝に、有力王族を対象とした資養のための壬生部が設置され、
厩戸王家にも経済的・軍事的基盤として東国(伊豆・甲斐)に壬生部として上宮乳部(かみつみやのみぶ)が設置されており、
山背大兄王が蘇我入鹿の討伐軍に攻められたとき、東国で軍勢を集めて反撃すれば勝算ありと進言されたが、
これは、秦氏の管掌する乳部(みぶ)の軍事力が期待できるものであったことを示す。
山背大兄王は、それには従わず自害したが、それについて「紀」の、万民に苦労を掛けたくないという王の意思によるものという記述は、「紀」の潤色であって、
秦氏の王家とのつながりは、ミツキの貢進としての職務上のことであって、私的な臣従関係はなかったと見られるのである。
秦氏はまた、蘇我氏の警護も担当したという。
厩戸王の軍事力は東国の壬生部の動員にあったとするが、官職としての軍事力動員の命令系統はどうなっていたのか、
手工業的な機織りのミツキについては、散在分担して行えるから、特に問題は見いだせないが、
灌漑治水工事や宮殿造営での集中的人員動員と併せ、軍事動員についても、本書では説明されておらず、その実態は不明のままである。
(続く)
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