正法眼蔵の中にある「扇を使う」について書こうと
余語翠巖老師の本をぱらぱらとめくっていたら、
「懺悔を語る」というところに目が留まった。
煩悩を自分でなくすことはできないが、
自分の煩悩に気づいていくとき、
煩悩があっても、それに
どっぷり溺れることがなくなるのだと、
ある賢者から聞いたことがある。
なぜそうなるのか、
そういう働きがあるとしか言いようがないのだが、
それについて、余語さんも書いている。
煩悩にはつぎのようなものがある。
貪--自分の思いったとおりに事が運ばないと
気が済まないというむさぼり、
瞋--気に入らないことがあると