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よくあるご質問

28  加藤登紀子の素顔と横顔 「Re・ライフ festival」 ロイヤルパークホテル(朝日)

 過日、この企画で、加藤登紀子のライブ・トークのプログラムにも参加しました。1度も、こうした催しには参加したことがないで、好奇心半分、興味半分で参加しました。

加藤登紀子は、75歳だという。ギターを弾きながら、自分の来し方を語りました。最初の25歳までを第1章と呼び、「人生の幕開け」。第2章は、50歳まで、「恋をして、走る」。第3章は、50歳~75歳、「壁を超える」。と区切ってみたという。そして、75歳からの人生は、「巡る」と題して、命の暦を巡るのだそうだ。

ウーム、そういう分け方もあるか、と考えさせられた。

加藤登紀子は、「一人寝の子守歌」で、デヴューしたのだろうか?25歳の幕開けの時期に、この曲を出したという。私も、この歌を聴きながら、3畳一間の、小さな下宿で、孤独なオオカミのように過ごしていたことがあった。確かに、「…浮気な夜風が、トントン戸を叩き…♪」私を呼んでいたような気がする。この弾き語りは、一瞬にして、私を、若かった時代に引き戻した。

かたや現役のギタリスト、かたや干からびた一介の老爺。そして、一方は、舞台に立つ人、他方は、客席で舞台を見上げる人。70年の人生行路は、かくも大きな違いを見せたのかと苦笑する。もっとも、加藤登紀子は、最初から輝いていたし、私は、出だしからくすんでいた。まあ、それも人生。

加藤登紀子は、シャンソン歌手でもある。続いて、フランス語で、「さくらんぼの実る頃」を歌いだした。1871年の「パリ・コンミューン」の唄だという。初めて聞いた。今でも、「パリ・コンミューン」は、フランスの人の記憶に新しいらしい。1789年のフランス革命以後、ナポレオンの征服戦争と、敗北。そして、ブルボン王朝の復活と反動のうねり、1848年の革命。最後の締めくくりは、「パリ・コンミューン」だった。しかし、参加者の多くが、処刑され敗北に終わった。その刑場であるペール・ラシエーズを、私が、訪れたのは、今から25年ほど前であった。
この「さくらんぼの実る頃」という歌が、「紅の豚」の主題曲にもなっているという。加藤登紀子は、声優の役割も果たしたとか。

加藤登紀子は、その夫―藤本敏夫(獄中結婚ともいう)の行動を理解できる人間だったのだな、と初めて知った。1969年頃だったろうか、大学紛争が燃え盛ったのは…。加藤登紀子と、全共闘の議長が結婚したという話を、風の便りに聞いた。私の記憶には、かすかなものとしてしか残っていない。そして、人生の第4章を開こうとする加藤登紀子は、この炎を灯し続けているかに見えた。

続いて、夫の思い出に話が移っていった。藤本は、反帝全学連副委員長で、同志社大学在学中から運動に参加。1972年から、3年8ヶ月、収監されている。その後、千葉鴨川で、多目的農園を設立、生涯、農業に専念したという。加藤登紀子は、夫を、あの人は、「だましてばかり…」とか、「あの嘘つきは…」とか言っていたが、58歳で他界し、すでに17年経ってしまった今では、“嘘つき人”も懐かしい思い出の人、としておさまっているのかもしれない。加藤登紀子との間に生まれた子供を見て、藤本は、「僕のツッパリが消えた」と、その可愛さゆえに、自分の考えが変わっていったと、どこかの新聞に寄稿していた。それを、加藤の友人が、教えてくれて、加藤は夫の心の内を知ることになったという。自分に直接言ってくれなかったことを、恨みを込めて“嘘つき”と揶揄したのかもしれない。
「本音を男はやたら口にしない」を、信条にしていた男だったらしい。
加藤登紀子は、「ウソと本当の間には、『深くて暗い謎がある』」と言って観客を笑わせた。

加藤登紀子は、急に話題を変え、50年前の3月1日は、「一人寝の子守歌」を出した日であり、100年前の1919-3-1は、韓国の「3・1独立運動」があった日でしたと、話し始めた。そうだ、言われて思い出した。まさか、こんな場面で、韓国独立運動の開始日であったことを思い出させられようとは…。そして、1919-5-4は、中国の反日運動―「五・四運動」の日であった。日本人も、踏みつけた側として、忘れていけない日であったのだ。一種 “お祭り”のような気分で参加していた私は、頭をガツンとやられたような気がした。加藤登紀子の指摘は、日中・日韓関係を考えさせるのに効果的だった。加藤登紀子の知られざる一面を、見たような気がした。

「人の生涯は、死によって終わらない」、と加藤登紀子は言った。
夫の58歳の死によって、はじめて、奥さんであることを感じたと。「誰かに託せるか」、「託せる人がいるのか」。そう考えた時、2人の関係ははじまるのだ、とも。
加藤登紀子は、夫の遺志を継ぐ決心でも持ったのだろうか?「夫に出会えた、夫が見つかった、…アル中の夫ではあったが…」と。追憶とお惚気を超えて、人生の終章―第4楽章に入ろうとしている加藤の言葉は、笑えないリアリティがあった。第4章、75歳からの人生は、これまた、新しいページの幕開けなのかもしれない。

こどものように、泣きたいだけ泣けばいい…♪

1時間のライブ・トークは、終わりとなり、ホールに満席の観客から、喝采が沸いた。加藤登紀子は、両手を広げ、舞台からゆっくり降り、客席に近づき、観客と握手を始めた。拍手は、一層高まった。そして、私の座っていた列にも歩んできた。10番目くらいの最右列に腰かけていた私の傍を、握手しながら進む加藤登紀子に、私も手を差し伸べた。握手した。手の感触は、荒れているのか、ギタリストは、手を痛めるのか、少しザラっとしていた。気さくで、飾り気のない、太い神経の持ち主なのだと思った。「百万本のバラ」、「リリーマルレーン」なども歌っているという。観客は、頭の毛の薄い人も多かった。女性も半数くらいいただろうか。加藤登紀子より、少し若い世代のひとたち=1960年代末の世代が、再度集会を持ったような雰囲気だった。アンコールとしてさらに1曲歌った。掠れるところはあったがまだまだ、声量があった。
この歳になって、改めて“おときさん”を見直した。
そして、明日は、大震災、8年目にあたる。2019-3-11。

カテゴリ:エンタメ・ホビー

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