次席代官、岡 勘平(おか かんぺい) 改訂版

次席代官、岡 勘平(おか かんぺい) 改訂版
生年不明、1714年、正徳4年8月没
名張藤堂家の御刀番である岡家の三代目の人、岡 勘平 景秀のことである。
名張藤堂家の伊勢領の代官、福井文右衛門が、神域を侵した責任をとり、保津(ほうづ)(現在、三重県松阪市保津町)の代官所で自尽した時、岡は、次席代官であった。

当時、名張藤堂家の領地は、表高で2万石である。後に、1万5千石となる。

岡 勘平 景秀の先代は、景之、先々代は、景俊である。岡家の始祖は、岡 嘉兵衛 景俊である。
次席代官の岡 勘平は、三代目である。
四代目は、岡 景雄 與左衛門である。岡 勘