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次席代官、岡 勘平(おか かんぺい) 改訂版

次席代官、岡 勘平(おか かんぺい) 改訂版
生年不明、1714年、正徳4年8月没
名張藤堂家の御刀番である岡家の三代目の人、岡 勘平 景秀のことである。
名張藤堂家の伊勢領の代官、福井文右衛門が、神域を侵した責任をとり、保津(ほうづ)(現在、三重県松阪市保津町)の代官所で自尽した時、岡は、次席代官であった。

当時、名張藤堂家の領地は、表高で2万石である。後に、1万5千石となる。

岡 勘平 景秀の先代は、景之、先々代は、景俊である。岡家の始祖は、岡 嘉兵衛 景俊である。
次席代官の岡 勘平は、三代目である。
四代目は、岡 景雄 與左衛門である。岡 勘平の妻は、「中村新右衛門安明娘」と記載されている。隠居後は、「岡 齋」を号とした。
岡家の家紋は、「沢潟(おもだか)」である。

岡家は、名張藤堂家の御刀番であったが、いつから御刀番であったかは不詳である。

天保10年(1839年)の、ご家中分限並役所帳(神戸市・武田市文書)に次ぎのように出ている。
90石 御刀番 岡 勘次郎

御刀番とは、当家の刀、槍、弓、鉄砲など武器全般を担当する。
当時、岡家の家禄は、100石である。

岡 勘平は、家督相続する以前に、伊勢領、保津(ほうづ)(現在、三重県松阪市保津町)の代官所に勤務していたのではなかろうか。お役料をもらっていたはずである。

始祖の岡 嘉兵衛 景俊は、1653年、万治2年に亡くなった。
岡家の菩提寺は、妙典寺である。岡 勘平は、葬儀のために保津(ほうづ)から名張へ帰郷したであろう。
福井代官切腹後、3年経過していた。
初代は、既に、隠居の身であったと推定する。

1670年、寛文10年に、名張藤堂家の初代、藤堂高吉が亡くなり、名張藤堂家2代目が家督相続する時、伊勢領における領地、1万5千石の内の5千石が減り、
保津(ほうづ)は、名張藤堂家の領地でなくなった。そのため、保津の代官所は、他の村へ移転したのではなかろうか。岡 勘平の職場は、新代官所の地へ移ったと思われる。

岡家の2代目、岡 與左衛門 景之は、1686年、貞亨(ていきょう)4年に亡くなった。高吉没後16年である。

岡 勘平は、1686年までに家督相続したかと思われる。家督相続の時点で、伊勢領勤務を解かれ名張へ帰り、御刀番となったと思われる。
1680年頃かと推定する。1650年からこの時まで、「文右衛門水路」により、出間(いずま)のたんぼにおいて豊作が続いたことを長年、20年以上、
福井代官の事績の必要性と偉大さを実感したことだろう。

岡 勘平は、1714年、正徳4年8月に名張で亡くなった。院号は、秀光院自照山月居士。福井代官切腹後、64年経過している。名張の妙典寺の墓地に埋葬された。
正確な年齢は不明であるが、もし仮に、福井代官が自尽された時、25歳であれば、享年89歳となる。
保津(ほうづ)に勤務していた次席代官の岡 勘平は、若い人であったと私は思う。

その時、53歳の福井代官は、年の離れた若い次席代官 岡 勘平に、事後の一切を任せたと考える。岡 勘平は、長生きの人であったと思う。

岡家の月別過去帳に、二世 景之、とある。また、当家の家系図において、勘平の名が最初に記載されている人である。この2つを根拠とした。
岡家は、初代から代々継続して、「景」の1字を襲名し現在に至っている。勘平の名も、継続ではないが襲名されている。

名張藤堂家の伊勢代官は、世襲ではない。20年ほども長く代官を務めることもある。
宝永、正徳、享保の頃、岡 勘平の名は、連年かどうかわからないが、また、数代にわたるかもしれないが、資料に名前が出ていて、代官であったらしい」と、
豊永徳之助先生が執筆された「桔梗のほまれ」に出ている。保津(ほうづ)の代官所の岡 勘平 次席代官は、福井代官自刃後、伊勢代官となって、20年以上、
推定で(30年、1680年)頃まで、伊勢の代官所に勤務していたかと推定する。

岡家は、御刀番であったが、刀だけでなく、弓、鉄砲も含む武器全般を取り扱う役目であったらしい。弓に関する古文書、鉄砲の入れ物らしい袋などが現代に伝えられている。
次席代官の岡 勘平に関係のある当時の古文書が当家に伝わっている。伊勢領の地名が記されている。

写真
下機殿(しもはたどの)神社付近

カテゴリ:旅行・お出かけ

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