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よくあるご質問

7days映画紹介チャレンジ① 『ローマの休日』

ねこのしっぽさんから、「7days映画紹介チャレンジ」のお誘いを受けた。
 人を押しのけてまで人前に出て行くことのなかった消極的な性格を幾らかでも乗り越えようと、若い頃から少なくとも依頼されたら断らないようにしようと心がけてきた。連帯保証人以外は。現役時代も地方からお呼びがかかれば有難いことだと考え、土日が潰れようと出かけて行った。
 ブックチャレンジならともかく映画となると最近劇場では、1年以上前に『新聞記者』を観たくらいで、海外に出た時に飛行機の中で観るのがせいぜい、それについては旅日記の中でも触れてきた。
 従って、映画について書くとなると古い作品になってしまうことをお許しいただこう。
 第一作目を何にしようと考えて、意外性とは対極の誰もが思い浮かべる『ローマの休日』にした。

 ウィリアム・ワイラー監督、グレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーン主演のアメリカ映画。
 一介のアメリカ人新聞記者と某国の王女様が出逢いローマの街を巡り歩くという、絶対にあり得ない丸一日の体験を共有する中で、身分の差を越えた恋が成就し、そして節度を持って別れを受け入れる。
 ただそれだけの話であるが、そこにおける二人の全き精神的健康さに観た者も共感するように思う。
 権力を盾に業者にタダ飯をねだる卑しさとは無縁な、清潔感溢れるその精神性が好感の要因だろう。いや、登場人物の格好の良さと妖精のような可憐で美しい佇まいにお伽の世界に引き込まれるのだ。
 1953年のこの作品は日本でテレビ放送が開始された年であり、黒澤明の『七人の侍』や菊田一夫の『君の名は』もこの年に公開されている。後で考えて、そういう時代でもあったと言えるのかもしれない。
 無差別殺戮を繰り返していた世界戦争がやっと終わり、善良な人間性を取り戻した時でもあった。
 フランス映画の、二階から人生を眺めるような柔らかな人生観とおしゃれなタッチ。一方、イタリア映画は汚い手で顔を触られるような、リアレスティックなあまり接したくはない実生活をえぐり出して見せるような暗さ。イギリス映画は、倫理性を踏まえて優等生的な礼儀正しさを見せながら、蔭に回ってこっそり先生に告げ口するようなところも。その点でアメリカ映画は、ベトナム戦争以前は実に健康的でハッピーエンドで安心して観ていられるところがあった。
 と言っても、一昔前も二昔前の私の観念論的な映画観かもしれない、現在ではもっと複雑多様になっていて、こう単純には仕切れないとは思うが。
 いずれにしても『ローマの休日』は男にとっては、大人の「おとぎ話」と言っていいだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=zMZmnGX3w6I

 しかし、この映画が製作されたころ、アメリカは「赤狩り」つまりマッカーシズムがハリウッドを襲っていて、ワイラーはアメリカの戦後民主主義のあるべき方向は、反共的なものであってはいけないことを明確に表明していたことから、当局から睨まれていてアメリカを離れたいと思っていた時でもあった。
 本来、スタジオで撮影されることの多いハリウッド映画を、現地ロケで行いたいと言い出したのはワイラー自身であり、それでは金がかかりすぎるというので白黒で撮らざるを得なかったという。既にテクニカラーにすることは可能であったのだが、白黒になったのはそうした事情があった。
 まして、実際のこの映画の脚本家であるダルトン・トランボは「赤狩り」の査問を受け、証言を拒んだために刑務所に入れられている。従って、『ローマの休日』の脚本はイアン・マクレラン・ハンターとなっているが、この人の名を借りたにすぎない。後にそのことが明らかになって、アカデミー賞のブロンズ像がダルトン・トランボに渡されるべきものが、ハンターの家族が拒んだという話も残っている。
 当時のハリウッド世界の中にも、友人を裏切る密告などが渦巻いていたことから、後に触れようと思う映画の最後でアン王女とジョー間で、国家間の友好関係と人と人との信頼関係に言及していることも、「赤狩り」に対するワイラーの、本来の人間観を示したいとの想いがあったのではないのだろうか。

 書棚を眺めていたら、オードリーの写真集や『ローマの休日』に関する本が何冊か出てきた。『一度は行きたいあの恋愛映画の絶景ロケ地を見る』(新人物往来社)や、文・写真・秋山秀一著『シネマで旅する世界の街』(DAX-出版)など、旅に出ても観た映画を彷彿とさせる場に出くわすことがあり、映画という総合芸術の奥深さを実感することにもなる。
 ワイラー監督の完璧主義から何度も撮りなおされたというが、唯一、「真実の口」ではワイラーとペックが話をしてオードリーには内緒で、一発撮りで本当に素のままの驚きでOKとなった場面だという。
https://www.youtube.com/watch?v=1ytjph55OyU

 この映画の成功は、アンとジョーの無言の対面シーンにあるように思う。セリフを極端に少なくして、抑えに抑えた演出が功を奏しているように思う。
 「諸国間の友好関係についての展望を」との問いに対して、「友情を信じます、人々の友情を信じるように」と答える。この言葉は侍従の筋書きにはないから、彼らは驚きの表情をする。
 王女は何らかの形でジョーに信号を送らねばならない。特ダネにされればスキャンダルもいいところ。抱擁の思い出も無残なものになってしまう。あれはスクープのための策略だったのだろうか。まだジョーを信じるわけにはいかない。
  そこで大勢の記者の前でジョーが発言する。
 「王女様の信頼が裏切られることはないでしょう」
 「その言葉をお聞きして、大変うれしく存じます」。
 これ以上は短くはできない会話。二人の信頼と愛情は守られた。
 訪問した国々でどこがよかったかと尋ねられて、「いずこも忘れ難く良し悪しを決めるのは困難、(おざなりの回答を止め、一呼吸おいてきっぱりと)・・・ローマです。もちろんローマです。今回の訪問は永遠に忘れ得ぬ思い出となるでしょう」。驚く侍従たちを無視して、王女は断固として言い放つ。
 前日、大使館に帰ってから見せた王女の成長と変化を、観客は見せられて安堵し嬉しくもなる。王女は何よりも人間として、一人の自立した女性として生きている。もはや操り人形ではない。
 記者会見の初め、王女はジョーを記者団の中に見つけて驚きの表情を見せる。心中は大変な動揺であったと思うが、微かな表情の変化しか見せない。きりりとした中にも僅かな動揺がみえるが。
 困惑と少しばかりの不信がある。そしてジョーの言葉を聞いて安心をする。無言の愛情の確認によって、二人だけの永遠の秘密として残すことができる。
 にじみ出る美しさと若さが渾然と輝いている。
 そうしたことに代表されるように、この映画は、三つの友情(愛情)と連帯の物語でもある。
 ひとつは、当然王女とジョーとの間のもの。シンデレラ姫を裏返したようなストーリーで、身分違いも観客はメルヘンの世界に自己を感情移入できる。品の良さが清々しい気持ちにさせてくれるのだ。
 二つ目は、ジョーとアービングの友情。アービングは特ダネ写真を多額の金にもできたはずだ。男の友情と信頼を描き、ワイラーの明確なマッカーシズム拒否の気持ちを表わしていると見ることもできる。
 三つめは、王女と侍従たちとの信頼である。「祖国と王家に対して義務があればこそ戻って来ました」と言って、侍従たちが小言をいう隙を与えなかった。脱出する前のあどけないやんちゃな娘から自己を確立した王女に成長している。主体性を持った王女としての任務遂行の姿勢を示している。
 人は一夜にして変わり得るという王女のローマにおける行動と受けた精神的衝撃は、それだけ内実のものであったし、そのことが納得できるような出来事でもあった。
 古都ローマの魅力を紹介しつつ、ヘップバーンの美しさを極限まで映し出した映画といえよう。

https://www.youtube.com/watch?v=4vyuLTVhICg

カテゴリ:アート・文化

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