吾妻鑑、頼朝の死

吾妻鏡に次の記述がある。
「相模川の橋の修理を三浦義村が申し出て、北条義時・大江広元・三善康信らが話し合った。『あれは建久9年に稲毛重成が造った橋だが、落成供養に出席された故将軍家(頼朝)は帰途落馬して亡くなり、稲毛も後に誅された。不吉な橋だから再建しない方がよいだろう」

加山雄三や桑田佳祐が住んでいた茅ヶ崎市の住民は相模川を馬入(ばにゅう)川と呼んでいた。そしてその意味を知っている人は余りいなかっただろう。頼朝が乗っていた馬が暴れて川に落ちたところから来ているようだ。稲毛重成が作った橋は埋もれていたが関東大震災の液状化現象で浮上し、旧相模川橋脚として