夜の高知市内~朝の散歩 (四国2つの秘境と5つの絶景冒険旅行ツアー1日目夜~2日目朝 2023年7月6日~7日

「板垣退助像」 続高知城 (2つの秘境と5つの絶景 四国冒険旅行ツアー 2日目) 2023年7月7日

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初代は大正12(1923)年12月5日除幕。製作は坂本龍馬の銅像も作った、高知県宿毛市出身の本山白雲、総工費15,646円99銭。銅像の高さは2,46m。

銅像本体は戦時中、金属回収のため供出されることになり、昭和18(1943)年9月2日に壮行式が行われた。
現在の銅像は、昭和31(1956)年5月11日に再建除幕されたもの。製作は夜須町出身の浜口青果、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。銅像の高さは2,20m、台座4,205m、全高6,405m。

板垣は、天保8(1837)年に土佐藩士300石の家に生まれた。旧姓は乾。戊辰戦争の功績によって土佐藩の家老格に出世し、明治新政府では参議となったが、明治6(1873)年に西郷隆盛らと征韓論を主張して破れ、翌7年には土佐に帰り、同志と共に立志社を創立して自由民権運動を展開した。

立志社を中心とした自由民権運動は全国にその活動を拡大し、「自由は土佐の山間より出づ」といわれ、板垣は同14年自由党結成とともに党首となった。

明治15年4月6日、岐阜の中教院での演説会で暴漢に刺された際、血まみれの中で口にした「板垣死すとも自由は死せず」の一言が新聞やその他で報道され、この言葉が自由民権運動の合言葉となるとともに、彼は一躍自由民権運動の英雄となった。板垣らの運動は曲折を経ながらも、明治22年の憲法発布、国会開設への道をひらいた。

その後、板垣は伊藤内閣の内務大臣などの要職についたが、明治33年政界を引退したあとは社会改良運動に晩年をささげ、大正8(1919)年8月16日に83歳で死去した。

追手門、板垣退助像、山内一豊妻(千代)像 等
途中工事中で、立ち入り出来ない区域があった。

早朝なので無視して侵入したら、警報鳴り出して、慌てて戻った。

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