「連載」は24回までだという。「我が家の履歴から」はもう疾うに24回には達してしまっていた。だから、いわばその続編として「社会心理学徒への道」を書き出した。wakohも子供からは成長して、「学徒」を目指し始めている頃だったからだった。 だが、ここでどうしても「学徒」と言うよりも、「我が家」として一言なりと言っておきたいことに、今更ながら気が付いた。そこで、敢えて「番外編」として記そうとするもの…
wakohの最新の日記は、「噫!偉人アムンゼン!」と題する、1927年8月にシベリア鉄道で、父が国際学会に行く途上、突然ロシアの官憲に、大切な論文・資料の類をスンでのことに没収されそうになったその時、現れたアムンゼンの弁明によって、免れたこと、そして学会終了後アムンゼンの自宅に招待されるに至ったことを、父がエッセーとして記し、wakohがそれを紹介したものであった。 何度読み返しても、それは劇…
父は、前にも触れたように、社交家ではなかった。と言っても、気難しい孤独な学者ではさらさらなかった。円満な温厚な人柄だった。もちろん研究者としての厳しい側面もあったけれども。 父は法医学者だったから、その交友には、医学者・医師が多いのは当然だろう。父は大正5年に東京帝大医科大学を卒業している。後年は「大五医師会」の幹事役を勤めてもいた。父にとっては、法医学・血清学の恩師三田定則先生のことは生…
wakohは父のことはある程度承知しているつもりだった。ところが、ごく最近、思いもかけぬことを知った。父は死去してすでに40年に近い。あと1か月半もすれば、満40年になるところだ。 その経緯はともかくとして、実は家内は35年間も東京家裁の調停委員をしていたのだが、その退任後も、現役時代熱心だった読書会に積極的に参加している。最近のその読書会で、ある方がたまたま仰ってくださったのだそうだ。 …
「我が家の履歴から」を書きかけてから、既に相当の時日が経過した。(その15)を書いたのは3月8日のことだった。「下山事件?」についてだった。その事件勃発時には、wakohは高3だった。その後相当期間、父は最も深い関係者の一人だった。そのため、新聞記者の不意の来訪など、後を絶たず、受験勉強に落ち着いて勤しみ励むどころではなかった。 当時は塾などは一般的ではなく、自分で勉強するより仕方がなかった…
我が家の履歴から(その15)下山事件? 「下山事件」が起こったのは、1949年7月5日のことだった。受験勉強を始めようとしている時だった。今と違って、塾などまだ殆どない時代だ。自学自習する以外にはない。昭和史を揺るがす大事件の渦中に入ってしまった受験生など、日本中を隈なく探しても、wakoh以外には一人としていなかったことであろう。それ以来、何か月かもの間、落ち着いて受験勉強などできる環境で…
我が家の履歴から(17.番外編?帝銀事件の時 「帝銀事件」と言えば、戦後日本の大事件の一つである。それが何で「我が家の履歴」と関わりがあるのか。それが大ありなのだ。実は、この日記の中で、wakohは父のことをF.T.としか言わなかった。あまり本名を出して論じたくなかったからでもある。だが、wakoh自身、数え年ではすでに85歳になっている人間だ。この先、どれだけこの世の旅路を続けられるかわか…
我が家の履歴から(その13)校舎を求めての彷徨 緒戦にこそ、その勝利に大半の国民は酔った第二次世界大戦は、その後年ごとに戦況は不利となり、悪化していった。 1945年になると、誰の目にも、敗色は一層濃厚になっていった。3月10日の東京大空襲をはじめとして、米軍の無差別攻撃は日本全国の主要都市に広がっていく。 そういう趨勢の中で、4月13日から14日にかけての大空襲によって、わが母校五中…
パソコンのトラブルもあって、書きかけていた「我が家の履歴から」はすっかり中断したままになっていた。しかし、どうやらパソコンも動くようになったみたいだ。ここらで再開しようか。もともとごくごく少数の方々にしかご覧いただいてはいないのだが。 (その7)には、「小学校時代の家族の動静」を記したので、あるいはそれとダブル点があるかもしれない。そうだとしたらお許しあれ。 我が家の家族は、一番多かった…
我が家の履歴からを、躊躇しつつも書き出したら、次から次へと色々なことが思い起こされてくる。ある程度重点的に絞っていかないならば、何時までも延々とだらだらと、独りよがりなことを書き連ね、心ある読者の顰蹙を買うくらいが関の山かもしれない。 けれども、2,3の書き進めることをお勧め下さる方もおられないわけではない。 それに、wakoh自身、自分が今書き留めておかない限り、誰一人として知らないま…