さんが書いた連載我が家の履歴からの日記一覧

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未面識の方による「古畑種基」論―「我が家の履歴から」番外編

これから書こうかしらんと漠然と思い立ったことは、あるいは読んでくださる方には反感を覚える方もあるかもしれない。だが真実を曲げるわけにもいかない。  書こうとする前提には、wakohがどう頑張ったところで、老い先そうは長くはないであろうということがある。それならいたずらに遠慮してばかりすることもないであろう。  wakohは現役の頃、ずっと教員だったのだが、その頃には、専門の書物や、学生向けのテ…

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ふるさと納税

このところしばしば書いているように、父の故郷訪問は積年の念いだったのだが、何かしら一つの課題をともかくも遅まきながら果たすことが出来、肩の荷の一つを降ろしたようでもある。予想に遥かに勝った歓待を忝くした。三重県紀宝町町役場、平尾井地区長と前地区長を始めとする地元の方々にどうお礼するかが問題だった。地元新聞5紙のうち、2紙は何と一面トップで写真入りで報じてくれた。それと言うのも、中核の方々の前もっ…

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父の故郷訪問の後には―熊野三山や高野山などなど―我が家の履歴から(続・番外編)

前の日記を書いてからだけでも、既に数日を閲してしまった。正確には、前の前の日記から。そこで、言い訳とも言える日記を、先刻ほんのわずか記してみた。  「父の故郷を訪問して」は、我ながら少し気合が入ってしまった。長くなりすぎた。読んでくださる方にもご迷惑をおかけしたことであろう。  実は、その故郷訪問は、故郷の方々にとっては、好意的に受け止められたものであったらしい。少なくとも5紙が、それぞれ写真…

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父の故郷を訪ねて:我が家の履歴から(番外編)

またしばらく日記をお休みしてしまった。どうしてか。  かねて懸案だった父の生まれ故郷を漸く訪ねることが実現できたからである。  この「コラム」の「連載」は24回までと言う。「我が家の履歴から」は、疾うに24回に達してしまっている。だが、今から書こうとすることは、まさに我が家のルーツに関わることである。そこで、敢えて「番外編」とするものである。  今年1月22日の日記は「我が家の履歴から2.家族の…

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我が家の履歴から(番外編)目白の家の処分にみる父母の生き方

「連載」は24回までだという。「我が家の履歴から」はもう疾うに24回には達してしまっていた。だから、いわばその続編として「社会心理学徒への道」を書き出した。wakohも子供からは成長して、「学徒」を目指し始めている頃だったからだった。  だが、ここでどうしても「学徒」と言うよりも、「我が家」として一言なりと言っておきたいことに、今更ながら気が付いた。そこで、敢えて「番外編」として記そうとするもの…

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第24回 我が家の履歴から24.父死後40周年記念の墓参

今日5月6日は、父古畑種基の死去からちょうど40周年の記念の日である。父は1975年5月6日午前6時8分に死去した。あと1か月余りで、満84歳になる処だった。それまで、元気いっぱいであるかのように思われていた父が、突如倒れたのは、1971年12月25日のことだった。  札幌医大・和田寿郎教授による心臓移植の手術・その後の諸事件が端緒となって、「心臓移植懇談会」が発足することとなり、父がその座長…

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第12回 我が家の履歴から12.アムンゼンとの邂逅の47年後の死去直前の父

wakohの最新の日記は、「噫!偉人アムンゼン!」と題する、1927年8月にシベリア鉄道で、父が国際学会に行く途上、突然ロシアの官憲に、大切な論文・資料の類をスンでのことに没収されそうになったその時、現れたアムンゼンの弁明によって、免れたこと、そして学会終了後アムンゼンの自宅に招待されるに至ったことを、父がエッセーとして記し、wakohがそれを紹介したものであった。  何度読み返しても、それは劇…

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第11回 我が家の履歴から11.番外編?アムンゼンと父ー補遺

ずいぶん長いタイトルだ。wakohは去る2月12日、書きかけている「我が家の履歴から」の中で、(その9)に「番外篇?」として、「アムンゼンと父」と題する日記を書いた。  そして、アムンゼンから、なんとマンモスの牙から造った、アムンゼンの署名入りのペーパーナイフをじかに頂戴したことを記した。だが、その実物は、一昨年秋死去した兄の家にある「種基コーナー」にあるはずだとの趣意のことも記した。何時か、…

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第23回 我が家の履歴から23.駒場から本郷へ?教育心理学科への進学

さて、wakohが本郷に進学したのは1952年4月1日だった。今を去る63年前のことだ。新奇な経験ばかりが相次ぐ。  前から、何度も繰り返して言っているように、法学部ではなく、新設されたばかりの教育学部教育心理学科だった。  法学部は筆頭学部だった。その意味するところは、東大の中での設立順である。だから、入学式にせよ、卒業式にせよ、法・医・工・文・理・農・経済・教養・教育の順だった。卒業式の…

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第22回 我が家の履歴から22.駒場から本郷へ?

4月に入った。昨1日はエープリル・フールの日でもある。まるでそうであるかのようにすら思われる仕方で進路の大筋が決まったのだった。  新社会人の門出の日でもある。テレビや新聞などでもそのことが大々的に報じられてもいる。人事異動の日でもある。学校の場合は新学年度の発足の日だ。  入学したその秋には、キャンパスを揺るがすレッドパー反対、試験ボイコットの大ストライキがあったのだったが、その後も学生…

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第21回 我が家の履歴から21.父の交友関係の中には

父は、前にも触れたように、社交家ではなかった。と言っても、気難しい孤独な学者ではさらさらなかった。円満な温厚な人柄だった。もちろん研究者としての厳しい側面もあったけれども。  父は法医学者だったから、その交友には、医学者・医師が多いのは当然だろう。父は大正5年に東京帝大医科大学を卒業している。後年は「大五医師会」の幹事役を勤めてもいた。父にとっては、法医学・血清学の恩師三田定則先生のことは生…

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第20回 我が家の履歴から20.番外編?意外な発見

wakohは父のことはある程度承知しているつもりだった。ところが、ごく最近、思いもかけぬことを知った。父は死去してすでに40年に近い。あと1か月半もすれば、満40年になるところだ。  その経緯はともかくとして、実は家内は35年間も東京家裁の調停委員をしていたのだが、その退任後も、現役時代熱心だった読書会に積極的に参加している。最近のその読書会で、ある方がたまたま仰ってくださったのだそうだ。 …

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第19回 我が家の履歴から19.大学入学の頃、社会情勢とも関連して

「我が家の履歴から」を書きかけてから、既に相当の時日が経過した。(その15)を書いたのは3月8日のことだった。「下山事件?」についてだった。その事件勃発時には、wakohは高3だった。その後相当期間、父は最も深い関係者の一人だった。そのため、新聞記者の不意の来訪など、後を絶たず、受験勉強に落ち着いて勤しみ励むどころではなかった。  当時は塾などは一般的ではなく、自分で勉強するより仕方がなかった…

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第18回 我が家の履歴から18.下山事件?

我が家の履歴から(その15)下山事件?  「下山事件」が起こったのは、1949年7月5日のことだった。受験勉強を始めようとしている時だった。今と違って、塾などまだ殆どない時代だ。自学自習する以外にはない。昭和史を揺るがす大事件の渦中に入ってしまった受験生など、日本中を隈なく探しても、wakoh以外には一人としていなかったことであろう。それ以来、何か月かもの間、落ち着いて受験勉強などできる環境で…

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第17回 我が家の履歴から17.番外編?帝銀事件

我が家の履歴から(17.番外編?帝銀事件の時  「帝銀事件」と言えば、戦後日本の大事件の一つである。それが何で「我が家の履歴」と関わりがあるのか。それが大ありなのだ。実は、この日記の中で、wakohは父のことをF.T.としか言わなかった。あまり本名を出して論じたくなかったからでもある。だが、wakoh自身、数え年ではすでに85歳になっている人間だ。この先、どれだけこの世の旅路を続けられるかわか…

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第16回 我が家の履歴から16.校舎を求めての彷徨

我が家の履歴から(その13)校舎を求めての彷徨    緒戦にこそ、その勝利に大半の国民は酔った第二次世界大戦は、その後年ごとに戦況は不利となり、悪化していった。  1945年になると、誰の目にも、敗色は一層濃厚になっていった。3月10日の東京大空襲をはじめとして、米軍の無差別攻撃は日本全国の主要都市に広がっていく。  そういう趨勢の中で、4月13日から14日にかけての大空襲によって、わが母校五中…

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第15回 我が家の履歴から15.終戦の前後の家族の模様

パソコンのトラブルもあって、書きかけていた「我が家の履歴から」はすっかり中断したままになっていた。しかし、どうやらパソコンも動くようになったみたいだ。ここらで再開しようか。もともとごくごく少数の方々にしかご覧いただいてはいないのだが。  (その7)には、「小学校時代の家族の動静」を記したので、あるいはそれとダブル点があるかもしれない。そうだとしたらお許しあれ。  我が家の家族は、一番多かった…

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第14回 我が家の履歴から14.中学校時代?入学から敗戦の頃まで

我が家の履歴からを、躊躇しつつも書き出したら、次から次へと色々なことが思い起こされてくる。ある程度重点的に絞っていかないならば、何時までも延々とだらだらと、独りよがりなことを書き連ね、心ある読者の顰蹙を買うくらいが関の山かもしれない。  けれども、2,3の書き進めることをお勧め下さる方もおられないわけではない。  それに、wakoh自身、自分が今書き留めておかない限り、誰一人として知らないま…

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第13回 我が家の履歴から13.番外編?姉の結婚とwakohの進路

中学校時代に入るつもりが、次から次に、いろいろなことが思い起こされて、なかなか入れずにいる。  wakohの進路にある種の影響を与えた、ある事柄に触れておこうか。中学校に入る前なのだが。  1943年(昭和18年)11月3日、姉の結婚式があり、その披露宴もあった。そんな事がどうして、wakohの進路とつながって来るのか。普通なら、まるで関係のない事柄に思われるであろうのに。  それはこういうわけ…

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第10回 我が家の履歴から10.番外編?アムンゼンと父

父の事でも書き出そうものなら、それこそスペースがいくらあっても足りないくらいだろう。だから、ここでは、至らぬ小人wakoh自身にのみスポットライトを当てるつもりだった。 だが、wakohの出自には、父を全く無視するわけにもいかない。そのため(その8)では父母の結婚に至った経緯まで触れてしまった。  父はドイツを中心に留学の後、金沢医科大学初代法医学教授として、それ以来獅子奮迅の勢いで研究に邁…