エーテル体・アストラル体をとおしての教育。
シュタイナー教育というのがあるそうですね。
何でも幼児期から発達段階を分けそれぞれの段階で「真・善・美」ということを教えて下さるそうです。
シュタイナー教育では、人間の成長を7年おきに大別してとらえる。生まれてから成人するまでの21年間のうちに世界から「真・善・美」を全身を通して理解し、その世界と自分との一体感を見いだし、世界の中で自由で自律的に生きることのできる人格の育成を目指す。
第1七年期(0〜7歳) - 肉体が誕生してからの7年間。この肉体を動かす事、すなわち意志の成長が課題となる。萌芽的な段階にあるエーテル体をゆっくり教育するため、無意識的な活動、特に毎日の生活のリズムを重視する。この時期の子どもは周囲の大人、特に両親からの直接的、間接的な影響を全身に吸い込んで成長する。つまり無意識的にも「(私の周りの)世界は善であふれている」ことを子どもが理解するような教育を目指す。
第2七年期(7〜14歳) - エーテル体が既に自律し、アストラル体が活動するようになるまでの7年間。アストラル体が司るもの、すなわち感情の成長が課題となる。そのため芸術に重きを置いた教育実践によって、いきいきした感情を育み、「世界は美しい」とおぼろげにも感じられる教育を目指す。
第3七年期(14〜21歳) - アストラル体が既に自律し、自我がはっきりしてくるまでの7年間。表象活動の活発化が課題となる。明晰な表象活動により「世界は真実に満ちている」ことをはっきり理解する教育を目指す。 Wikipediaを参照しました。
これに書かれています、「エーテル体」、「アストラル体」というのは宗教に興味があるものなら少しは耳にしたり、考えたりしたことがあるものですが、大学で哲学を学んだものでもなかなか理解できません。
このシュタイナー教育を受けられたことが御有りの方がいらっしゃいますか。もしよろしければお教えください。
現実の段階から、違った段階であるエーテル体やアストラル体への行き来はどれくらい意識出来ますか。
この教育法は何を学ぶかということでなく、いかに学ぶかということ、いかにして知識に到達するかを学ぶのであって知識を詰め込むことではない教育をしているそうですね。
幼い時から、この教育を受けられることは本当に素晴らしい経験だと思いますが、この教育によって人生への意識がどう変わったでしょうか。
どのようなことでもお気づきの点がありましたら、お教え下さい。
不躾な質問で申し訳ありません。
ペンネーム:質問者 (匿名希望)さん
シュタイナーや神智学協会のことを少しだけ読ませてもらいました。
神智学協会やシュタイナー氏の書に書かれておられることは、ヒンドゥ教に親しんでおりますものにとりましてとても身近に感じられます。
ヨーロッパでは、キリスト教と神秘主義とは相いれられぬものと聞いております。
(詳しいことまでは知っていませんが、宗教会議にて輪廻やカルマという考えが否定されたのは、教会の役割は、人々を道徳的に導く存在であり、神秘主義や人々が個人で自らを導くことは教会の否定につながるからだと聞いています。)
様々な理由からシュタイナー教育も「気違い」と差別対象になっているのかもしれませんね。
日本では宗教的なことよりも、文部省の認可が下りず、僅か二校が構造改革特区で認可されているだけだそうですね。
関西には無認可校があり、そこへ一度見学に伺わせてもらおうと思っています。
シンシアさんは子育ての時から、シュタイナー教育を知っておられたのですね。
モンテッソーリ教育やシュタイナー教育に関してつい先ほど知ったばかりの私などは遅れてきたものでしかないようです。
私は子供は自身で自分を教育すると思っています。
「真・善・美」を子どもが理解し、自らを教えるって素晴らしいことですね。
このサイトも色々な方が参加されています。
PCに詳しい方だけでなく、お寺さんや科学者、お医者さん、ありとあらゆるかたがいらっしゃいます。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
「西洋流の生命科学のみの価値観」で、「この世からあの世に繋がる可能性の探索を、徹底的に拒否する」わけだから、「全ての人間が、不可知の普遍的な大問題(臨終と、死後の自分の可能性)を、各個人の問題として、自分で解決せねばならない」ことを余儀なくされているわけです。
「神智学」と「西洋流の生命科学」の「ギャップを埋める」ためには、「神智学を、DNAのゲノムのレベル」から「説き直す」ことが不可欠のように思います。「両方」とも、「実学中心(=応用できる側面の強調だけ)になっている」ので、「両者の間に、介在する本質が欠落する」のではないでしょうか?「学校法人は、多分、一方通行の、教育だけの組織」でしょうから、「研究できる大学に、特区」を創るべきではないでしょうか?
「友愛社会」も、「この世で終わる命だけでなく、命の連続性まで、拡張する」ような「研究特区(大学内)で、本質的な展開ができる」ように、「稀有で恵まれた宇宙人に、期待したい」ですね。さもなければ、「オカルト、アホ、バカ、・・」などの「展開不能の、罵りあい」だけの「不毛な、断絶のまま」でしょう。
「京セラの稲盛さん」が、「僧籍を求める心境」こそが、「指導的な実業家として、当たり前」のことだと考えています。「自分が死んだ先のことは、野となれ山となれ」を前提とした「西洋型の政治経済理論」だけで、「地球の未来を叫んでも、空しい限り」に感じています。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
そうですよ。
ご質問の
> 幼い時から、この教育を受けられることは本当に素晴らしい経験だと思いますが、この教育によって人生への意識がどう変わったでしょうか。
どのようなことでもお気づきの点がありましたら、お教え下さい。
私はこの質問で、「実際にこの教育に関わった親や子供」
に向けて。
だと思ったので回答を付けたのですが、違うようですね。
質問なのか、議論をしたいのか、思いを発信したいのか
読みとれませんが、
英語ができるとしたら、海外サイトでお尋ねした方が
より詳しく知ることができるのではないでしょうか?
ヒンドゥ教にご興味がおありなのは、HNを見れば私にも分かります。
すばらしいご意見が寄せられるといいですね。
ペンネーム:質問者 (匿名希望)さん
勿論質問の主意は、この教育を受けた子供がどう受け取ったかをお尋ねしています。
個人個人は無限に可能性のある無数のものから、自分の欲望とかみ合ったものを選択した世界に生きていると思います。
ですから自分の欲望と同一化したら見える世界が決まるでしょう。
子供の時に、欲望でなく、「真・善・美」の世界のことを思うということは欲望で曇らない目を持つことに繋がると思えます。
そうした目を子供の時から持てるのはとても素晴らしいことではないでしょうか。
この教育を批判する側からはそんな教育は無意味だという声が聞こえてきます。
が、私はその教育を受けること自体が重要ではないかと思います。
コメントに気がつくのが遅れこのコメントが遅くなりました。申し訳ありません。