他の方が書かれていますが、竜馬は維新後すっかり忘れられた存在でした。
皇后の夢枕に立たなければ、司馬遼太郎さんも果たして「竜馬」に照準を合わせられたかどうかわかりません。
私は愛すべき策士だと言うくらいに思っています。
同じ策士であった清河八郎と似た境遇でしたが、曲がりなりにも土佐藩の出で有りましたから、清河八郎に較べて後ろ盾があったように思います。
同藩の若き上士で有りました板垣退助 が、竜馬をこう評しています。-
「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん。」
板垣退助から見ますと、商才があるけれど政商くらいにしか見ていないようです。
坂本龍馬は維新後しばらくは注目されることのなかった存在だったのですが、明治16年(1883年)に高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒』が掲載され、大評判となった事により一躍その名が知られるようになったそうですね。
参考までに竜馬が維新政府からどのように見られていたかを証する事例を挙げておきます。
明治24年(1891年)には正四位が追贈された。
龍馬の長姉・千鶴の長男・小野淳輔(高松太郎)が坂本直と改名して龍馬の家名を継ぐことになり、永世15人口(30石)が下された。
因みに維新の元勲の行賞は西郷隆盛は2,000石、木戸孝允は1,500石、後藤象二郎は1,000石であった。
竜馬を貶すつもりは決してありません。
高校時代産経新聞の夕刊に掲載された司馬遼太郎さんの
「竜馬がゆく」が楽しみで、産経を購読していた叔父の家まで毎日のように寄り道をしました。
京都に行きますと、東山通りにある墓地をいつも訪ねました。
その頃はまだ竜馬はあまり知られておられなくて、中岡慎太郎の墓もですが、ほとんど御参りする人がいらっしゃいませんでした。
中岡慎太郎は、それこそ「剛毅果断」な人物であったように思います。