見えないものを見ようとする努力や、それがなんであるか理解しようとする努力は必要だと思うが・・・
私が書き込みをする前に、これだけある程度の回答があると、既に
「見えてくるものは”***”である」
という思い込みができていて、違うものはみることができる人はいったい何人いるだろうか?
”はだかの王様”というお話がある。
皆が、「これは上等な絹でできている上着だ」、「ああ、なんてキレイなんでしょう」・・・などという周りの人間のお世辞に踊らされて何も着ないで民衆の前に出る。
こどもが「王様ははだかだ!」と言うまで、誰もそれを言うことができなかった。なんだか、今の政治と同じかな?
私は何も見えなかった。・・・最初の文章は、これを言いたいための長い前フリだ。
眼はいいほうだと思う。両眼とも視力1.5以上ある。それ以上は誰も計ってくれない。(冗談で2.0まではチェックした)
全くこの手の画像は苦手!!
(なおふみさんのコメント)
これは何か見えますということと見え方を教えてもらわなければ、見えないと言う人のほうが多数だと思いますよ。そういう点ではたまさんは多数派でしょう。しかし仮にたまさんが少数派だとしても、見えませんと言う認識を実社会の組織の中で、見えると言う多数の人の前であるいは社長の前で、反対意見として言えるかどうかという問題があります。言える精神力がないために自分の認識が周りに左右されてしまう人間が多いのはおっしゃるとおりでしょう。
このQ&Aの中で言うことは簡単ですが、実社会で同様のことがあったら、私は違いますと独自の認識を表明することが出来るかどうかです。
出来ると仮定して、この質問はさらに見えるものを苦手という理由で見ようとしないのも、現実を正しく認識する上ではまずいのではないかと言っているわけです。 なおふみさん 10月3日 14:42
たまの追加コメント
私は、あえて見えませんといって物議を醸す典型的な人間です。見えないものをあえて見える、見たくないものを詮索しない、という選択肢もあるような気がする。
あえて、書きたいことがあったので、一旦削除して回答しました。